|
|
プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
|
|
最近の記事 |
|
|
カテゴリー |
|
|
カレンダー |
11
| 2023/12 |
01
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
- |
- |
- |
- |
- |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
|
|
最近のコメント |
|
|
FC2カウンター |
|
|
FC2ブログランキング |
|
|
ブログ内検索 |
|
|
RSSフィード |
|
|
|
<教室日記>2014・5・25(火) |
「ブログ講義」 (カンデンスキーが見た夢)
今週の30日と31日の土日に大人教室の「会員展」がある。 作品発表会。 生徒さんのほとんどが、この会員展目指して一年間頑張る。 そのため、5月に入ると受講ラッシュが続く。 出品がギリギリの人が、あせり始めるからだ。
田屋も出品するが、昨年は秋の展覧会用のエスキース(試作)を出品した。 今年もその予定だったが、エスキース用の小品を、ドローイング練習のため、描き潰してしまった。 旧作ならたくさんあるが、壁サイズが多いため、今年は、自宅の居間に飾っている「楕円」を出品することにした。 約20年に亘り、楕円を描いてきたが、この楕円が一作目。 楕円1号。 ここから全てが始まった。
さて、また、久しぶりにブログ講義をしてみよう。 今回は、抽象画の祖、カンデンスキー。 私が敬愛する画家の一人である。
ここに、七つのカタチがある。 丸、四角、バツ、星印、月形、菱形 の七つ。 この七つのカタチを繰り返し、並び変えて、一つのイメージにせよ。 と、いう問題を出したら、皆さんどうするか。
立派なアートの出題である。
答えは置いといて、問題の趣旨を言おう。 これは、2月17日のブログ記事の (一枚の紙と1本の鉛筆でできること) の中で書いた「線の変化」と同じ話である。
読んでない方に、一応説明すると、ドローイングの基本練習のこと。
画面上に線を引く。 短い線、長い線、太い、細い、曲線、直線、グニャグニャ線など、どのくらい線だけで、変化をつけられるか。 画面上のパターンの数をできるだけ増やし、各部分が、一様にならないようにする。 そういう話だった。
これと同じように七つのカタチを繰り返し、大きくしたり、小さくしたりしながら、パターンを増やす。 練習なので、ほとんど上手くいかないが、もし、変化が上手くいけば、何か一つのイメージが浮かび上がって来るはず。 それは、まさしく、アート。 アート作品にもこういうものがある。
この方法で作品化を目指した者がいる。
カンデンスキーである。
カンデンスキーが目指したものは、画面上のカタチの変化。 変化、変化の連続で、画面をいっぱいに満たすこと。 それが、カンデンスキーが見た夢であった。
ワシリー・カンデンスキーは、抽象絵画の先駆者として、モンドリアンやマレービッチとともに有名であるが、1910頃から1922年以前の「コンポジション」シリーズでは、画面上のカタチ・線の変化を圧倒的な色彩と構成により表現した。
特に、1913年のコンポジションⅥ、Ⅶは、彼の恍惚とした絶叫さえ聞こえてくるようだ。 細かく見ていくと、後から何度も加筆した様子がうかがえ、絶叫に至る経緯で、苦しみもだえた様子が見て取れる。
変化させ、また変化させることは、精神的な苦痛を伴う。 そう簡単には、変化を続けられず、同じようなカタチの繰り返しになっていくと、精神的にも追い詰められ、しまいには、ノイローゼ状態になるのが、この変化変化の制作である。
それに、何とか耐え抜いたら、今度は画面のボリュームとバランスの問題を解決しなければならない。 ボリュームとバランスの関係は厄介で、ボリュームを追うとバランスを崩す。 バランスを良くすると、ボリュームがなくなる。 兼ね合いを探すのが至難の技になるが、カンデンスキーは、これを難なくやってのける。
「お見事!」
という作品を作り出す。
アートは、いかに粘り、いかに勝利するものなのか、その手本を見るようだ。
確かに、芸術作品がなくても、人は生きていける。 それは間違いない。
一般大衆にとって、デザインは、色々な分野において広く浸透しているので、デザイン性がなくなると、無味乾燥な生活になる。 これはシンドい。 だから、デザインは、大衆にとって必要だろう。
しかし、芸術は、大衆から遠く離れてしまうので、その存在が消失しても、大衆は気が付かないかもしれない。 それほど、芸術と大衆の距離は遠い。
カンデンスキーが、見た夢は大衆的ではない。 だから、分からない人には分からない。 残念ながら、一生分からないかもしれない。 芸術は、決して大衆に語り掛けない。 ただ、そこにあるが、興味がなければ、存在すら確認できないだろう。 芸術を求めた者のみが知る精神世界である。
だから、皆に芸術を分かってほしいとは思わない。 興味がなければ、芸術も何の役にも立たない。 しかし、もし、カンデンスキーが無名の画家で、いきなり、コンポジションⅥ、Ⅶと出合ったら、どうだろうか? 芸術に興味がなくても、かなり驚くのではないか。 「これは、一体なんだろうか?」 そのくらいの衝撃は、感じると思う。
私だったら、衝撃は計り知れない。 ハンマーで殴られたくらいの衝撃を感じるだろう。
それは、作家が放つ強烈な熱放射であり、芸術が放つ衝撃波でもある。 確かに、芸術は大衆的ではない。 理解する人間も限られてくるが、強烈な芸術という魂は、皆をも巻き込むだけのエネルギーを秘めている。
そして、そのエネルギーだけは、誰にでも伝わる。 得体の知れないものとして、人々の心の中に、飛び込んで行く。 それは、芸術の持つエネルギーであり、芸術の定義を突き詰めると、エネルギーを放射するものということになるから。
カンデンスキーの見た夢は、魂のエネルギーとして、未だに、人々の琴線を揺さぶり続ける。
芸術が、なぜ、人類に必要か?
それは、これほど人の心を強烈に揺さぶるものは、恋する心と芸術しかないからである。
スポンサーサイト
|
|
|