[ただ今、9/4(火)より連載中]
デッサンを基本とした方が良いとの考え方は確かにある。
絵を描いている人間のほとんどが、そう言うと思う。一般的というより確かな経験として。だからって、絵の世界は広い。とんでもない所から、とんでもない人が飛び出してくる。
ジミー大西氏の絵を見てると、デッサンをチマチマ描いている人が、アホに見える。半面、ゆったりしたデッサン力を芯にしたフェルメールの写実に心奪われる。今度は、デッサンこそ、絵の骨組みであると思ってしまう。一体なぜだろうと思う。
人の琴線は一つではない。それがどうやら答えだろう。それこそ、何十何百もの琴線が用意されていて、あらゆる感覚に対応する。それが、人間の構造ではないだろうか。まあ、それは、確かだろう。
まず、「人間が感じることが始めにありき。」というになる。確かに、そういう順番だし、それなら、両極端があっても、不思議はない。不思議はないけど、収拾もつかない。
そこで、そういう琴線があるのが、人間の構造なら、その構造が生み出したのも絵である。琴線が絵を生み出した。琴線がなぜあるか、はその道の専門家に任せるとして、琴線が生み出した絵に理屈があるか、を考えよう。
つまり、方法論が、はたしてあるか。絵の方法論とは、すなわち、絵という感覚世界の方法論のことである。 残念ながら、今も昔も、感覚を説明できる理屈はない。したがって、感覚に近づく方法論もないのが現状である。方法論がなければ、入り口も当然ないことになる。それでは、絵の指導は出来ないし、絵を学びたい人も困る。
絵は感覚世界と述べたが、この感覚世界の中に、実は全ての答えがある。ナイーブアートとアカデミックアートの両極端が存在する理由も、絵の基本が、デッサンか、との問いの答えもこの感覚世界にある。(最終章につづく)
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