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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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<教室日記>2014・9・9(火)
「アート講義」
(帳尻合わせ)

  来週の9月16日(火)からまた、生徒さんの作品紹介をする。 
後半の1回目、通しでは、作品紹介7人目になるが、稲垣博之さんのデッサンでスタートする。
  作品紹介マラソン! 乞う、ご期待!!



さて、久しぶりにアート講義をしてみよう。 
   8月の制作の合間に考えたこと。 
制作の前半は、画面に色を何度も撒くのだが、1回撒くと、ドライヤーで乾かして30分は掛かる。 
  三脚にドライヤーを縛り付けているので、スイッチを入れれば、あとは、することがない。 

  そのため、このアート講義のほか、アグリッパのデッサン見本まで描いた。 8月の前半は、意外と暇だったのである。 


  さて、ヒマ人の考えたアート講義のテーマは、「帳尻合わせ」

人は、帳尻を合わせるという話。
 

  人 はというより、人間は、帳尻を合わせることが好きな動物だ。 
人間だけが持つ特性だと言える。 他の動物は帳尻を合わせることはしない。 と、思う。 
  動物学者ではないので、「しない」 ということで話を進めるが、

なぜ、人は帳尻を合わせたがるのだろうか?



  ちらかしたら、片付ける。  
何かを始めたら、やりっぱなしにしない。 しないというより、やりっぱなしを好まない。 何でも、やりっぱなしをする人は、皆の非難の的になる。 始めたら収拾をつける。 
  これらは、みな、大きな意味で、帳尻合わせと考えられる。 

また、具体的には、ジョークや落語のオチ。 映画の結末、サスペンスの犯人。 みな、最後に帳尻を合わせる。 
  出だしがあり、話を引っ張り、オチをつけて帳尻を合わせる。 

つまり、「なーるほど」 を好むのである。 

  なぜ、ピラミッドの先は、とんがっているのか、なぜ、東西南北にセットされているのか。 
  何かの帳尻を合わせようとしたからに他ならない。 単なる権威の象徴としての墓だったら、立方体で積み上げても良かったはず。 
  立方体にすると、下に重さが掛かり過ぎるという物理的な問題は置いといて、上に向って細くしたのには、ちゃんと意味がある。
  何かの帳尻を合わせ、意味を持たせた。 ここにも「なーるほど」 がある。

人は、自然に、そう思考する。 ほとんど、本能に近い。
  だから、古今東西、時代を超えて、帳尻合わせは、共通する認識になっている。 

そして、今なお、帳尻合わせは続いている。 その思考は、人間社会の全てに反映されている。


 
  人類は、絵画にしろ、文学にしろ、音楽にしろ、帳尻を合わせることに終始してきた。 帳尻を合わせて、マトメる。 
  そして、その最高の帳尻合わせを、芸術と呼んだ。 
芸術とは、研ぎ澄まされた感覚で、技を使い、最高の状態で、帳尻を合わせること。 


  出だしがあり、中盤があり、最後に帳尻を合わせる。 つまり、ものの繋がりは、帳尻が合うことによって、意味が生まれる。
  だから、帳尻の合わないものを駄作と呼んだ。 意味がないものということ。 


では、帳尻が合わないものは、なんでもダメなのだろうか?
  もしかしたら、いいものがあるのではないだろうか?


さあて、どんなものだろうか。
  帳尻が合わないものでも、いいものがあるとしたら、それこそ、この話の帳尻が合わなくなってしまうが、しかし、少なくとも、絵の世界には、実際にありえる。



  帳尻が合わないのは、合わないのか、合わせないのか、どちらかになる。 
自然に合わない。 または、合わせないということ。

  まず、合わない代表が、子供の絵である。 それも5才児以下の幼児。 普通4才児から5才児くらいだと、描きなぐるだけで、まとめるに意識はない。
 
  帳尻の合わない絵を描きなぐる。 本人にとって、ただ、描くことに意味がある。 表現手段の乏しい幼児にとっての、数少ない自己表現手段として絵を描くのだろう。 
  だから、描いたものを他の人に見せたがるが、帳尻を合わせようとすることは、全く考えない。 
  この絵が、取るに足らない絵なら、話題にならないが、傑作が多いので、話がややっこしい。

  幼児の絵が、素晴らしいのは、絵の世界の常識。 どんな優秀な絵描きでも幼児の絵には脱帽する。 
  どんな人も、一生に一度だけ絵の天才になる時期がある。 それが、全く技術を持たない4才児から5才児の期間だ。 


  絵の技術を持てば持つほど、幼児の絵にショックを受ける。 自分の絵が汚れて見えるので困る。
  つまり、帳尻が合わなくてもいい絵がここに一つあるということ。 
ただし、お断りしておくが、視覚的にいいのであって、帳尻は合ってないので、芸術とは無縁である。 


  あと、帳尻が合わない絵は、他にもある。 幼児の絵と同じようなことで、大人でも絵の極めてヘタな人がいるが、こういう人の描く絵は、絵が柔らかく、視覚的に優れている場合がある。 
  ヘタなため帳尻は合ってない。 本人は大人なので、帳尻を合わせようという意識はあるが、上手く合わせられない。 
  
  そのため、帳尻を合わせの意識があっても、結果的に幼児の絵に近いものになってしまう。 
  これほど、絵のヘタな人は、極めて珍しいが、実際におり、私も何人か知っている。 
  一種の才能かもしれない。

  

では、帳尻を合わせない絵は、存在するだろうか?

  現代美術の考え方からすると、そういうのも「あり」ということになる。
現代美術が目指しているのは、既存の考え方の破壊、再構築、実験的制作。

  簡単な例を出そう。 
落書きである。 
  落書きが最も特徴的なのは、帳尻を合わせるつもりのないこと。 落書きは、予定して描くものでないし、直さない。 したがって、まとめる意識は初めからない。 

  帳尻を合わせるためには、まず、どういう絵を描くか予定し、予定どおりに行かない時は、修正する。 描いた部分を直すということ。 
  そうやって、帳尻を少しづつ合わせようとする。 

幼児の描きなぐりと、方法論的には、同一なのは、落書きである。 落書きこそが、結果的に帳尻を合わせない絵の代表だと言える。

  これに目をつけたのが、アメリカの現代美術。 落書きを現代美術として受け入れたのである。 ここに、帳尻を合わせない美術が、誕生した。 
  帳尻合わせには、時間が伴う。 始まりがあり、途中があり、帳尻合わせがある。 だから、時間が伴うが、帳尻を合わせがないのだったら、この時間は必要ない。 つまり、一瞬でいい。 
  一瞬で、有効なアートを生み出すとしたら、凝縮された感覚しかない。 

つまり、落書きアートは、凝縮された感覚だけでアートを作り出している。 




  現代美術が目指しているものが、既存の考え方の破壊だとしたら、この帳尻合わせを破壊してこそ、現代美術と言える。   
  私も、長年、絵を描いてきて、帳尻合わせに専念してきた。 それは、自然にそう思考するし、全人類が推奨している。
 
  しかし、帳尻を合わせなくても絵になるとしたら、絵の世界は、根底からひっくり返ってしまう。
  絵の世界だけではない。 有史以前から自然に思考してきた思考形態を壊すのだから、あらゆる文化の制作的方法論を壊すことになる。 
  現代美術でそれをやったら、美術史は、現代美術に至る直前で、ブツっと切れ、新たに現代美術を出発点とする美術史を作らねばならない。 

  ただし、落書きアートは、帳尻を合わせない絵としてあるが、それを以って、絵の世界はひっくり返らない。 

  なぜなら、落書きアートが、帳尻を合わせない絵としてあるのは、あくまで結果論であって、帳尻を合わせない絵として生まれたのではないからだ。 
  たまたま、現代美術の観点から落書きが面白いと思い、アートに仕立てたのだろう。
 
  したがって、帳尻を合わせない絵として存在するが、帳尻を合わせない絵として誕生していないため、そこから、何かが生まれる可能性は、ほとんどゼロに近い。 
  落書きは、落書きで始まり、落書きで終わる。 
やはり、単発で、終わる可能性が高い。 それが証拠に、絵の世界は、未だにひっくり返っていない。


  美術史では、ラスコーやアルタミラの洞窟画から出発点している。 ここを美術の出発点としているが、特に、アルタミラの洞窟画では、瀕死の獣が力強く見事に描かれている。 
  この描き方を見ると、すでに相当な帳尻合わせが行われているのが、見てとれる。 

  有史以前にすでに、人類は帳尻合わせをしていた。 
以後、あらゆる文化、あらゆる制作は、帳尻を合わせることによって成り立ってきた。 
  だから、帳尻合わせの感覚は、極めて根強い。 絵画教室も詰まるところ、帳尻の合わせ方を指導している。


  円は、描き出した所に戻るので、円となり、帳尻が合う。 円を描き出して、元の所に戻らないのが、ハテナマーク、つまり、「?」 のこと。
  ハテナマークは、元に戻らず、帳尻が合わないから、クエスチョンなのだ。 意味不明ということ。
 

  今のところ、帳尻を合わせないアートは、意味不明だ。
確かに、帳尻を合わせなくても絵になるのだったら、絵の世界は、ひっくり返る。 
  しかし、あくまでも理論上の話で、方法が見つらなければ、ただの空論だが、美術史をひっくり返すヒントはある。
  
  例えば、帳尻を合わせることは、作為的な行動なので、あるがままを描き、調整しなければ、理論上、帳尻を合わせない絵になりうる。 
  では、風景をそのまま描けばいいではないかと、思われるかもしれないが、そうはいかない。 
  どのくらいの大きさで描くか、どこを描くか、考えた瞬間、調整が始まってしまう。 

  だから、今のところ落書きしかないことになるが、どなたか、方法を思い付いたら、ご一報を。
  私は、とりあえず、思い付かない。
 
最後に帳尻が合わない。 まあ、いいか・・・・・
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