[ただ今、9/4(火)より連載中] (三章つづき)
ここで、一つの考え方がある。「デッサンは技術であり、技術は感覚を壊しやすい」ということ。
これは、極端な言い方をすれば、一つの技術を得るために、一つの感覚と交換するということ。色々な技術を身につけた人が、色々な感覚を持っていることは、極めて珍しい。ほとんどいない。これが、技術と感覚との皮肉な関係なのである。
つまり、デッサンを習得するために、感覚という粘土が、軟らかく、もろくなった、と考えられる。したがって、デッサンをしなかった者の粘土は固い。だから、骨組みがいらない。そこで、感覚が基本ということになる。
そこで、この部分を少し補足説明する。デッサンは両刃の剣なのである。確かにデッサンの効能はある。しかし、それは、良い面であり、悪い面もある。
悪い面とは、デッサンのもう片方の刃は、感覚を削る刃であること。 感覚が削られ、、感覚(粘土)が弱まると、そこで、メッセージに骨組みが透けて見える。骨組みは、あくまで、支えであるのに、支えが先に見えて、それから、メッセージが後から見えてくるような事態になる。これを、デッサンが邪魔してると、絵の世界では、言うが、デッサンの習得には、多分にこういった事が、起こりえる。
また、デッサンをしなかった者は、感覚が温存され、純度と強度が増すと考えられる。感覚そのものが骨組みの代わりをするので、透けて見えても、感覚しかない。この考え方を、アフリカン・アートを始めとする古代のアートに適用すると、つじつまがあう。 これがナイーブアートといえる。
ナイーブアートの基本とする考え方はない。方法論がないのである。感覚だけがあるのが、ナイーブアートということになる。 技術を持たないナイーブアートと技術の権化たるアカデミックアートとが、同時に、絵の世界に存在することが、ミステリーである。 一体、この両極端の二つが同時に存在する絵の世界とはなんであろうか?はたして、絵の基本はデッサンでは、ないのであろうか?(四章につづく) (次回は9/11(火)より再開)
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