アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子、伊藤悠里子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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<教室日記>2014・1・14(火)
<ブログ講義>
「デッサンが基本は、本当に正しいか?」アーカイブー2007年9月4日のブログより

  この1月からアーカイブ編ということで、以前書いたブログ講義をご紹介する。 
今回最初にご紹介するのは、2007年9月4日から毎日7日間掲載した、「デッサンが基本は、本当に正しいか?」という記事である。 
  当時は、このブログも1回1000字までの制限付きだったので、7日間も掛かってしまった。 
  大変な長文であるが、今回は二度に分けずに一度に読んでもらおうと考えた。 興味のある方のみお勧めする。 現物とは違い、編集編である。
 

  さて、一般に絵を始めるなら、まずは、デッサンからと皆考える。 デッサンが基本だと言う。 
  果たしてそうであろうか?
これが、今回のテーマである。 

  デッサンが基本だとする考え方は、結構難しい問題を抱えている。 そこで、まず、デッサンとは、いかなるものか、またその必要性について考えてみよう。  

  わが大人教室の人で、デッサンを勉強したほうがいいと、思う人は確かに何人かいる。 どうして必要かといえば、画面が見づらいこと、バランスが悪いこと、角度がマチマチであること、が挙げられる。
 
  絵は基本的にメッセージであるから、自分の感じたこと、感動、イメージを第三者に素直に伝えなくてはならない。 その伝達を邪魔するものは、排除するのが、絵の制作上の基本的考え方だ。
 
  したがって、画面が見づらい云々では困るわけで、そのためには、デッサンを勉強するのも、方法であろう。  

  デッサン効果ともいえる基本的効果は色々ある。 構図の問題、バランスの問題、形の把握、人物の骨格及び肉付き、画面上の表情のつけ方、濃淡のバランス、制作過程の反復エトセトラ。 
  様々な制作上の問題は、デッサンを勉強することで、得るものが大きい。  

また、デッサンは、実体に限りなく近づける作業でもある。 写実の極致の意味合いから、見たものをそのまま描くことになる。 
  そのまま、描くのであるが、これが、案外簡単ではない。 

  例えば、モチーフのカタチをとったとして、当然、鉛筆を持った手で描いているはずだが、その実、カタチは脳で描いていると言える。 
  つまり、手も、モチーフを見ている目も、ものを考えない。 手は脳からの伝達で動き、目は、見たものを脳に伝えるためにある。 全ては、脳が考え認識する。

  教室でよくある例を出してみよう。 
デッサン初心者に、ガラスの瓶を描いてもらう。 テーブルの上に置いた普通のワインボトル。 
  
  普通のワインボトルなので、断面は正円であるが、それを横から見ると、ボトルは楕円の集まりになる。 ボトルの底は楕円のタテの直径が長く、厚い楕円である。 逆に、上に行くにつれて直径が短くなり、薄くなる。
  
  デッサンであるから、これを、描くことになる。 ところが、この楕円を初心者は上手く描けない。未熟だからではない。 脳に楕円の情報がほとんどないからである。

  目が、薄い楕円の情報を脳に伝えても、判断するのは脳だ。 その脳が、どういう風に判断するかと言えば、脳内に貯蔵されている一番近い楕円のカタチの情報と照らすことになる。 

  脳が、これが目で見た楕円のカタチだと判断して、それを描くように手に伝達する。 これが、目が見たものと合致しない。

  薄い楕円は、通常、人の頭の中に情報としてないからだ。 結構、厚い楕円の情報しかないのが一般的。 
  だから、脳は、目が見た薄い楕円を認識できない。 それを講師が指摘すると、

「あっ! ホントだ! でも、どうして?」

  ということになる。 描いた本人は、ちゃんと見て描いているつもりだから驚く。 
デッサンのもう一つの効果は、この、 <脳のカタチの情報を更新する> ことがある。 薄い楕円があることに気付けば、更新される。 
  つまり、デッサンをするということは、このカタチに対する更新の繰り返しをする、という意味でもある。

  デッサンを描く人が、画面を消しゴムのカスだらけにしている光景をよく見かける。 
  これは、カタチの訂正を繰り返しているためであるが、同時に脳も消しゴムのカスだらけ。 目で見たカタチに限りなく近づけることは、まさに脳の情報次第ということになる。

  さて、ここまでだと、デッサンの必要性は十分にありそうだ。 「絵の基本はデッサン」であると、言いたくなる。 

  では、ここで、逆の話をしてみよう。  デッサンの不要性の話。 デッサンの不要性なんかあるはずがないと思う人もいるかもしれないが、それはどうだろうか? 

  デッサンとは、それほど強力なものなのか、ひっくり返してみよう。 さて、どうなるか?

  デッサンは技術なので、絵を描くためには技術が必要ということが前述までの話である。 技術がない絵は、程度が低いのであれば、世の中でアートと呼ばれるものは、皆、技術があることになる。 
  
  絵におけるアートの定義は、大雑把に言うと純粋なアピール性。 アピール度が高いほど、アート性も増す。 
  
  つまり、絵はメッセージであるので、相手に伝わるメッセージの量が多いほど、いい絵であるという判断基準がある。 しかし、実際にはメッセージの量が多いにもかかわらず、技術がないものもある。

  例えば、身近なところでは、子供の絵。 子供の絵は、純度からいったら、大人の比ではない。 純粋であるがために、その破天荒なアピール性は抜群である。 特に、小学校就学前の園児の絵に舌を巻く。  
  
  イマジネーションや感情だけでなぶり描きされた絵は、こちらの胸にそのまま飛び込んでくる。 驚くべきアピール度であるが、当然技術とは無縁である。
 
  また、大人の例としては、ジミー大西氏を挙げることができる。 彼はコメデイアンであったが、ある番組の海外訪問で絵を披露し、それをきっかけに才能を認められたのは、つとに有名である。
  
  私は初期の作品をテレビで見た範囲であるが、すばらしいと思った。 
才能の原石を見るようであった。 彼の絵を見ていると、デッサンはいらないなと思ってしまう。 
  もちろん、本人がデッサンの勉強をしていないことは、一目瞭然。
 
技術のない子供の絵が素晴らしく、デッサン経験がない大人の絵が素晴らしいのであるなら、絵の基本はデッサンだと決め付けられないことになる。 
  これは一体どういうことだろうか?

ピアノに例えてみよう。 例えば、技術のない子供が一生懸命にひいたピアノを素晴らしいと思うだろうか。 
  おそらく、その子のピアノに感動するのは親だけだろう。 ピアノを気持ち良く聴くためには、技術の裏づけが必要なのは、容易に想像つく。
 
  子供のよくある習い事にバレエもあるが、これも結果は想像つく。 テニスも野球も同じ。 これは、大人とて同じ。 

  これらの習い事には、基礎的な技術が必要であり、技術がないと第三者には鑑賞に堪えない。 
  
  では、なぜだろうか? 絵だけ、技術あってもなくても、有効なのか?

どうやら、その答えは、時間にありそうだ。 技術を基礎とするものには、時間が絡む。 そう考えるといいと思う。   
  前述した例は、その良さ、上手さを分かるためには時間が必要である。 一瞬では分からない。 つまり、鑑賞者を退屈させないために時間を持たせる技術が必要ということ。 

  他にも、時間が絡むものは、たくさんある。 文章がそう。 文章も駄文だとあくびが出る。 映画も、しっかりした製作技術がないと見る気がしない。 落語しかり、テレビしかり。 
  これらを仮に時間表現と名付けると、絵は瞬間表現ということになる。
 
その評価は一秒で決まる。 描き手は、その一秒のために努力する。 一秒の闘いである。  
  
  デッサンを基本として絵を始め、努力して、様々な技術を身につけ、知識を身につけ、経験を積む。 ところが、そこに、デッサンをやったこともない人が現れ、好きなように描いた絵が、評価されたら堪らない。 
  しかし皮肉なことに、努力した人間が、「一秒の闘い」で敗れることは、実際にあり得る。

  瞬間表現と言えるものは、他にもある。 例えば料理。 食べた瞬間に旨いか不味いか分かる。 香水もそうだ。 

  そして、これらは、基礎的な技術が必ず必要と言い切れない。 子供の作った料理が、親以外の第三者が旨いと思うかもしれない。 

  時間表現ではあり得ないことが、瞬間表現では起こり得る。 少なくとも可能性はある。 要するに本人のセンスの問題が大きく左右する。

  もうお分かりだろう。 瞬間表現または瞬間芸術は、純粋な感覚世界なのだ。 
そのため、絵の世界に関して言えば、昔から二種類の絵が存在していた。 ナイーブアートとアカデミックアート。 
  技術を持たない絵と技術を持った絵の両極である。   

さて、話は遠く過去に飛ぶ。 有史以前の話。 
  人類最古の絵と言われているのが、旧石器時代に描かれた洞窟壁画だ。 洞窟の壁に動物の絵や狩をする人が描かれている。 人はほとんど棒人間。 
  皆さんもご記憶あるだろう。 
  
アルタミラや、ラスコーの壁画が有名である。 紀元前3万~1万年いうことらしいので、これはもう相当古いが、人類が最初に描いた絵の痕跡ということらしい。
 
  その後、新石器時代を経て、もっと高度な文明が出現すると、絵も進化することになる。 エジプトやメソポタミア文明が産み落とす絵である。 後の古代ギリシャや、ローマ美術に影響を与えたと言われている。 
  
  これらの絵は、純然たるナイーブアートである。 技術を持たない絵であり、また、先進的な絵画の基礎を学んでいない絵というもの。
 
  ただ、ややっこしいことを言うが、絵画の基礎は学んでいないが、洞窟の壁画や古代遺跡で発見された絵は、線描きされている。 線描きされた絵をデッサンと言うので、デッサンをしていたことになる。
  
  今ふうのデッサンではないが、その後、面を塗るようになってから、この古代デッサンは廃れるのである。
 
  話を戻そう。
 
つまり、初めにナイーブアートありきなのである。 そして、美術が進歩し、よりリアル化し、面を塗るようになってから、下描き用または、練習用にデッサンが進化する。 
  
  その先は、お分かりのように何百年か掛かってアカデミックアートが出来上がっていく。
 
  では、ナイーブアートが消滅したかと言えば、そうではない。 ナイーブアートからアカデミックアートが枝分かれし進化したが、ナイーブアートはそのまま存続した。 
  第一、消滅する理由がない。 どの時代にも趣味で絵を描いていた人はいたはずだし、暇つぶしに描くのに、基礎を習うはずもない。

  ナイーブアートは、今日、技術を持たない絵という意味と、絵画の基礎を学んでいない絵という意味の他に、芸術性の希薄な絵という意味がある。 
  
  技術を持たない絵の例として、先のジミー大西の絵を挙げられる。 絵画の基礎を学んでいない絵の代表的な例は、アンリー・ルソー。 
  そして、芸術性の希薄な絵の例としては、ヒロ・ヤマガタや、ラッセンなどだろう。 イラストレーションの範疇に数えられる。 
 
  このナイーブアートの中で、今回のテーマである「デッサンが基本は本当に正しいか」に直接的に関係してくるのは、やはり、「技術を持たない絵」である。 
  なぜなら、アカデミックアートと同じ比重を持つから。 つまり、アート性において、同格なのである。
 
  そこで、これからは、ナイーブアートを「技術を持たない絵」の総称として話を続けることにするが、まず、両極の基本とするものは何かを探ってみよう。
 
  アカデミックアートの考え方は、当然デッサンを基本としている。 進化したデッサン。 では、対極のナイーブアートは何を基本としているのであろうか?
 
  ナイーブアートは体系付けされておらず、個々人の感覚に任されているが、感覚そのものを基本としていると考えられる。 ナイーブアートが、感覚を基本とする理由を、例を出してご説明しよう。
 
  粘土で、人間が立っているところを作ったとする。 まず、しっかりした骨組みが必要であろう。 そのため、骨組みを作り、上から粘土を付けていく。 骨組みがないと、粘土がグニャリと曲がってしまう。
  
  この骨組みがデッサンであると仮定する。 粘土は感覚と仮定。 この粘土、つまり感覚は軟らかく、もろい、だから、骨組みがいる。 
  つまり、デッサンという基礎の上に感覚を乗せる。 このような考え方をするのが、アカデミックアート。 

  では、対極のナイーブアートの骨組みはどんなものだろうか?

ここで、この問いにお答えする前に、別な話をする。
 
  「デッサンは技術であり、技術は感覚を壊しやすい」ということ。

これは、どういうことかと言えば、一つの技術を得るために、自分の持っている一つの感覚と交換するというシステムがあること。 
  このことは実際にあり得るし、絵の世界では日常的に起こっている。
 
色々な技術を身につけた人が、色々な感覚を持っていることは、極めて珍しい。 ほとんどいないといったほうが早い。 
  究極を言えば、技術か感覚かということ。 これが、技術と感覚との皮肉な関係なのである。    

  つまり、デッサンを習得するためには、感覚と交換になるため、感覚という粘土が、軟らかく、もろくなったと考えられる。 
  したがって、デッサンをしなかった者の粘土は固い。 だから、骨組みがいらない。 そこで、感覚が基本ということになる。
 
  デッサンは両刃の剣である。 確かにデッサン効果はある。 しかし、それは、良い面であり、悪い面もある。 
  
  悪い面とは、デッサンのもう片方の刃は、感覚を削る刃であること。 デッサンをすればするほど、感覚は削られる。 
  
  つまり、骨組みの上に付けたはずの粘土が削られ、骨組みそのものが透けて見えてしまう現象が起きる。 

  それでは意味がない。 しっかりした骨組みにしっかりした粘土が付くことが理想であるが、実際はそうもいかない。 

  しっかりした骨組みを作ると粘土が弱まる。 骨組みと粘土の関係、デッサンと感覚の関係は、そういうシーソーのような関係にある。 

  そのため、粘土が弱まり、骨組みがしっかり見えることを、「デッサンが邪魔している」 または、「絵が硬い」 と、絵の世界では表現する。
 
  聞いた話であるが、東京芸大の油絵科では、最近、デッサンの試験がなくなったという。 理由は、「デッサンをやり過ぎると、絵が硬くなるから」
 
  かく言う私も、わが師匠の映周先生に、デッサンを20才まで禁止された。 映周先生は、東京芸大の彫刻科出身である。 

  彫刻科は、油絵科よりバランスという面で、デッサン力を必要とされているため、若き映周先生は、デッサン勉強に明け暮れた。 そのため絵が硬くなった。 

彫刻家であるが、絵も描く。
 
「デッサンをやり過ぎた!」
 
  私が小さい頃からの、映周先生の口癖だ。 
おそらく、師匠は、私をナイーブアートの「技術を持たない絵」を描く人間にしたかったのだろうと、今にして思う。 

  一生デッサンを禁止したかったが、若き私がデッサンをしたくてウズウズしていたので、仕方なく20才をリミットにしたと考えられる。

  つまり、デッサンをしなかった者は、感覚が温存され、純度と強度が増す。 感覚そのものが骨組みの代わりをするので、透けて見えても、感覚しかない。 それがナイーブアート。 
  ナイーブアートは、基本とする考え方はない。 方法論がないのである。 ナイーブアートは、感覚世界の、また、さらに感覚的な世界であると言える。 

  さて、ここまでだと、なるほど、ナイーブアートがどういうものかは分かってきた。 しかし、では、と言う疑問が湧く。 

  アカデミックアートと、ナイーブアートが、絵という同じ世界に同格として存在するのは、一体、なぜなのだろうか? これは、不思議である。

絵の基本は一つではないのか? デッサンが基本ではいけないのか? なぜ、二つの対極するものが、同じ世界に同時に存在するのか? 

  それにお答えしよう。
 
デッサンを基本とした方が良いとの考え方は確かにある。 絵を描いている人間のほとんどが、そう言うと思う。 一般的というより確かな経験として。 
  だからと言って、絵の世界は広い。 トンでもない所から、トンでもない人が飛び出してくる。  

  ジミー大西氏の絵を見てると、デッサンをチマチマ描いているのが馬鹿らしく思える。 
  しかし、半面、ゆったりしたデッサン力を芯にしたフェルメールの写実に心奪われる。 デッサンこそ、絵の骨組みであると思ってしまう。 

  この矛盾は一体なんだろう?   

思うに、人の琴線は一つではない。 それがどうやら答えだろう。 

  それこそ、人には何十何百もの琴線が用意されていて、あらゆる感覚に対応する。 それが、人間の構造ではないだろうか。 
  
  まず、「人が感じたこと」 が、全ての始まりである。 感じたことを絵にする。 そのまま行くとナイーブアート。 論理立てしてアカデミックアート。 それなら、両極があっても不思議はない。
 
  つまり、琴線は純粋な感覚世界であるので、方法論は始めからない。 今も昔も、感覚を説明できる理屈はないからである。 
  
  しかし、それでは困る。 人は理屈に身を寄せて生きている。 他の動物と一線を画するのは、人間が理屈で生きる動物だから。 これは、ほとんど生物学的要請である。 
  したがって、感覚に近づく方法論が必要になる。 そこで論理立ての末、アカデミックアートという方法論が誕生する。 

  人は帳尻合わせが好きな動物だ。 アカデミックアートが目指したものは、その帳尻合わせ。 画面上の帳尻が合ったものを目指したのである。 

  フェルメールがいいのは、帳尻がピタッと合っているからに他ならない。 その帳尻合わせの技術をも持ったものを芸術と呼んだ。 

  芸術とは、最高の帳尻合わせ技術の上に純度の高い感覚を乗せることを意味する。 それが、芸術。 
  
  つまり、削り取られて、最後に残った感覚を無駄なく温存し、冠にしたのである。 まさに、人類の英知の結晶である。 
  
  ギザのピラミッドと同じと考えるといいかもしれない。 あれだけの建造物を、ただ石を積み上げただけでは、出来上がらない。 技術と知識が必要。 
  そして、その頂上には、やはり、帳尻合わせの冠がある。 

アカデミックアートは、感覚を理屈に置き換えた集大成であり、そして、その入り口がデッサンである。 
  したがって、デッサンを始めたら、ナイーブアートの感覚世界には、決して足を踏み入れることはできない。 
  
  デッサンでカタチを意識した瞬間に、純粋な感覚の三分の一は消えてなくなると思えばいい。 
  残りの三分の二では、感覚の、そのまた感覚の世界では生きていけない。
 
  私の絵の友人で、ナイーブアートを描いている男性がいる。 絵は、純然たる自己流。 上野の美術団体の会員でもあるが、その会の中でも評価は、真っ二つに分かれるという。 

  不思議なもので、人間はないものねだりの生き物だ。 彼は、自己流で生きていることを誇りに思っているが、私のような技術系の憧れも同時に持っている。 私は彼に憧れ、彼は私に憧れる。 
  
  しかし、残念ながら、私は、技術系で生きるしかない。 わが師匠の願いも空しくデッサンをしてしまったからである。
 
  彼に言ったことがある。
 
「技術に走ったら、負けるぞ」 「技術系の人間は掃いて捨てるほどいる」 「しかし、今の絵を描き続ければ、天下に我一人でいられる」
 
 
  想像を膨らませてほしい。

ここに、大きな、それこそ大きな、巨大な森があると。 
  この巨大な森は感覚の森。 絵の森である。
 
  先人達が、手探りでこの感覚の森にとりあえず入り口を作った。 そして、とりあえず、中に進む道を作った。それが、デッサンという道である。   

  つまり、広大な絵という感覚の森に、後から来る人のために、まず、入り口を作り、入り口から続く僅かばかりの道を作ったのである。 後から来た人はその道で、森に入るための知識を学び、経験し、反復して、準備を整える。 

  やがて、時期が来て、それぞれ、森の中に分け入って行く。 これが、数百年続き、人々は、森に入るための、当然の入り口として、その道をデッサンの道と名付けた。 道は公認ルートとなった。

  しかし、森であるから、探せば他に入り口はある。 その一つがナイーブアートという入り口である。ナイーブアートから入るには困難がつきもとう。 道がないので、いきなり森である。 

  ここから入る者は、力強く、逞しく、感覚的である。 知識がないぶん、自らの方向感覚を、研ぎ澄まさなければならない。 多分に野生的であるが、反面、何ものにも束縛されぬ、自由さがあり、独創性がある。    

  アカデミックアートが築いたのは、とりあえずの入り口であり、とりあえずの道である。 他に、いい入り口が見つからず、いい道も見つからないまま、現在に至っている。

  何百年も他に代わる道がないのは、とりあえずの道の、出来が良かったからに他ならない。 人々は、このデッサンの道が、この森に入る唯一の入り口と信じて疑わない。 絶大な支持を得て、今もある。

  デッサンを基本とするか、しないか。 人の選択にまかせる。 どちらかを選択したら、そのまま突き進みしかない。 どちらを選択しても、結果的にはイバラの道を歩くことになる。 

  少なくとも、絵という感覚の森は、人類誕生の時から、そこにあり、人々の好奇心の対象としてある。 これほど、興味深い森は、滅多にあるものではない。 

  だが、しかし、残念ながら、未だに、その森に入る最良の入り口、最良の道は見つかっていない。 したがって、デッサンの道が最良であるはずもない。 それだけは、確かである。
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テーマ:アート - ジャンル:学問・文化・芸術

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