ただ今、9/4(火)より連載中]
さて、ここで、逆の話をしよう。 絵の世界では、人にアピールする絵が良い絵ということになっている。高度な技術に裏打ちされた絵のみならず、基本がないメチャクチャな絵も、基本がない独特な個性的な絵も、すばらしいということがある。
絵は純粋感覚世界である。その評価は一秒で決まる。描き手は、その一秒のために、全人生、全修行、全努力、がある。一秒の闘いである。 デッサンを基本として絵を始め、努力して、様々な技術を身につけ、知識を身につけ、経験を積む。そこに、デッサンをやったこともない人が現れ、好きなように描いた絵が、評価される。すばらしい絵だと言われ、その努力した人より、「一秒の闘い」で勝つことは実際にありえる。
例えば、最近の一番いい例として、前述の「基本がない独特な個性的な絵」に、ジミー大西氏が該当する。彼はコメデイアンであるが、その絵の才能はつとに有名である。
私は初期の頃の彼の作品を、テレビで見た範囲であるが、すばらしいと思った。才能の原石を見るようである。彼の絵を見ると、デッサンはいらないなと思ってしまう。もちろんデッサンはどう見てもしてない。
ただ、目指すような絵ではない。彼だからできたこと。また、本人には悪いが、こういう作家は、絵描きとして短命なことが多い。続けていくのに、非常に難しい条件がつくからである。
まず、上達を望まないこと。絵の基本を勉強しないこと。自分の感覚だけを信じて描き続けること。他にもありそうだが、この、三つだけでも普通の人間には、難しい。人間は欲の塊である。上達を望まない者はいない。しかし、彼のような、感覚的な絵は、頭から素直に絵が出てくるのが、生命線になる。欲を出したら、普通になって価値を失う。 才能は、すばらしいが、維持するのは難しい。まあ、本人の好運を祈るしかないが、
それは、さて置き、どうやら、「絵の基本はデッサンである」とは、言い切れなくなってしまった。デッサンを基本とした名画は当然あるが、全く無視しても、絵として成立している。これでは、結論は出てこない。さて、困った。(三章につづく)
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