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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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<教室日記>2013・1・8(火)
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通信講座水彩画見本

<教室日記>
(抽象画と現代美術) 
 
  最近、日記ばかりを書いているので、ここら辺で、久しぶりにアート講義をしようと思う。 
  アート講義をし出すと、あれもこれもと、語ることが多い。 それで、いつも長文になってしまう。
  今回も、性懲りもなく長文である。 興味のある方、または、お時間のある方は、お付き合い願えるとありがたい。 
  今回のテーマは、抽象画と現代美術について。 では、始めます。 

長文スタート!

  抽象画は、近代美術の産物であり、絵画の進化形であるが、私の師匠は、抽象画を20世紀のハヤリモノと揶揄した。 抽象を嫌っている。 こういう考え方は、古い御仁に多く見受けられ、未だに、抽象排他主義的様相を呈している。 しかし、抽象画は、今や美術史の中に、歴然とした居場所を確保していることは、間違いない。
  抽象画を、画面の構成において説明すると、抽象画は具象画の構成を取っているのが特徴と言える。 ピントが合っているのが、具象、合っていないのが抽象という考え方ができる。

  この場合の抽象画とは、20世紀初頭に誕生した考え方・方法論を取っているもの、または引き継いでいるものである。 日本の一般社会レベルでは、未だに具象画が人気であり、抽象画は分かりづらいことを以って、人気度は低い。 

  では、はたして抽象画は、それほど分かりづらいのか?

確かに、具象のような具体性がない分、視点をどこに置いたらいいのか、分からないということだと思う。
  しかし、これは具象画を見る目を養うのと、同じことが言えるので、慣れていないということで片付けられそうだ。 見慣れていなければ、例え具象画でさえ分からないことは多い。 

  抽象画が誕生して100年は経つ。 したがって、抽象表現で、どのような無茶をしても、理解不能ということは、まず、考えられない。 20世紀の初頭に誕生した考え方・方法論を取っているか、引き継いでいるかなので、端から端まで見渡せるし、把握できる。 それは、現在進行形アートではないので、すでに、形として定着しているということ。 それで分かりやすい。 

  そこで、ここに現代美術を登場させるとどうなるか。

話がややっこしくなるのである。 まこと難解になっていく。  
  現代美術の範囲は、現在進行形美術なので、非常に分かりづらいし、把握しづらい。 まだ、ハッキリと特定されていない。 また、現代美術の定義の仕方もマチマチで、20世紀初頭以降から始まり現代までとか、1945年以降、つまり第二次大戦以降とか色々諸説がある。 20世紀初頭以降から始まったとすると、近代美術と現代美術がくっついてしまい、それはないだろうと思ってしまう。 

  私の知る限りでは、1950年前後以降と考えるのが一般的ではないかと思う。 あそこら辺から実験的な制作が目立ち始め、急激に変わったように思う。
  また、潮流も様々で、枝分かれあり、新規ありで、これがまたややっこしい。 あと50年経たないと全体像は把握できないだろうと思われる。

  さて、現代美術と言われるものの一例を挙げよう。
画面にセローテープで、何か(紙だったり、鉛筆だったり)を貼り付けるという行為がある。 つまり、それまで画面上の描き方の違いを、云々してきたのが、画面から飛び出したというのが、大きな違いになる。 このやり方に近いのが、コラージュだろうが、またちょっと違う。 

  コラージュは、写真などを切り張りして繋ぎ合わせて一つの画面にすることで、よく知られる方法である。 20世紀初頭に写真文化の発達に伴い、発生した表現方法だったと思うが、あくまで、平面画面を意識しており、写真と言う道具と、それを切って貼るという行為が違うだけで、それまでの美術的認識を大幅に変更するには、至らない。 

  しかし、セロテープのほうは、セローテープという至極日常的なもので、画面に何かを貼る行為そのものに意味があり、それまでの、美術認識を超えている。 現代美術が難解なのは、この点である。 つまり、具象画とか抽象画とか画面とか絵具とか、それまでの美術セットが全く役に立たなくなったということ。 

  壁に平筆で、ひたすら点線のように横線を描く作家がいる。 壁だけに留まらず、何にでも横線を引く。 その行為そのものがアートだとしている。 
  その他では、有名な「梱包」。 何でも布で梱包してしまう。 ビル一つ、何キロにも亘る岸壁とか、エスカレートしていくが、そのまま残すのは無理。 このように、あとで壊すこと、元通りにすることを了解した上でする行為をインスタレーションと呼ぶ。 別名パフォーマンス。 これなども、20世紀以前の何世紀にも亘り残すことを目的にした考え方は、ここにはない。 

  では、刹那的かと言うとそうでもない。 現代社会は、記録と情報伝達にかけては、お手の物。 写真・ビデオ・コンピューター・電話・テレビ・映画などなど、記録し伝達することに困ることはない。 むしろ、そういう時代性を背景に誕生した表現方法と言うことだろうが、いずれにしろ、ものを梱包することが、どうしてアートなのか、首をひねる人は、多そうだ。 

  爆発というのもある。 中国人作家のダイナマイトによる爆発もご存知の方は多いだろう。 これも何キロも連続爆発を起こすパフォーマンスである。  
  しかし、このような画面から飛び出したものもあるが、画面の中で変化させようと考える表現も当然ある。 美術セットを手放さなかった連中である。 ちょっと古いがアンデイー・ウオホールのポスターを挙げることができる。 アメリカ現代美術の先がけ的発想として、アンデイー・ウオホールのポスターは、あまりに有名。 ポスターをアートにしたのであるが、ここでは日常がテーマになる。 日常的なポスターを芸術の領域に引っ張り込もうとした。  

  普通に考えると、芸術と大衆は相容れない。 なぜなら、芸術とは、脱大衆だからである。 芸術は、大衆的でないから芸術として成り立つ。 一般大衆が芸術を理解するためには、大衆感覚を捨てきらないと理解できないようになっている。 アンデイー・ウオホールを代表とするアメリカ現代美術は、この芸術と大衆を融合させようとして、より問題を難解にした。 

  そんな中で、分かりやすいのは、落書きアートだろう。 落書きで有名なニューヨークが生み出したとも言える。 ご存知のように落書きは、技術はいらない。 落書きは、計算しないで描くことに落書きの本分がある。 したがって、感情がもっとも出やすいし、一番感覚的な制作は、落書きにこそある。 それをアートとして受け入れたアメリカの度量の広さには、驚かされる。 日本では絶対にありえない。
  バスキヤが有名であるが、最近の日本では、コメデイアンだった(?)ジミー大西が、その才能を見事に発揮している。 彼の絵が落書きとは言わないが、落書き的要素は多分に含んでいる。 
 
  と、まあ、このくらいにするが、これらも現代美術という大枠の一部に過ぎない。 とにもかくにも、途方もない広がりを見せていることは確か。 したがって、全てを分かろうとすることは、ほとんど意味がなく、私自身、分からないことのほうが多い。 一部分を以って現代美術としているのが現状。  

  日本の美術事情でも、さきの抽象画の範囲を出ていないものを現代美術として扱かったり、デザインと混同するもの、無茶をすれば現代美術と考えているものなどなど、様々であり、混沌この上なし。 したがって、個人の認識に任されており、現代美術と言い張った者勝ちと言えなくもない。 「それは、現代美術ではない」 と、言い切るためには、相当な見識が必要である。 そのため、個人レベルの判断によるため、陰口合戦が横行している。 

  今の日本の美術館で展開される現代美術は、非常に分かりやすい範囲のものに限定されているのが現状である。 過激なものはないに等しい。 悪臭を放つもの、散乱するもの、生理的悪寒を誘発するものなど、「危ない」ものは、排除されている。 でも、現代美術の大枠の中では、そういうものもある。 
  死んだ牛が、展示されていて、腹を割いて中から血まみれ(演出)の人間が飛び出すような衝撃一点張りのパフォーマンスをする作家もいる。 一般レベルで、この作家の考えを理解できるだろうか?

  世間的には、ピカソを難解の代名詞のように表現することをよく耳にする。 だが、今の美術界では、ピカソは、もっとも、分かりやすいものの代名詞になっている。 それほど、現代美術が難解であるということだろう。

  分からないことが多く、明快な話ができないのが残念であるが、一つの参考にして頂けるとありがたい。 
  美術の世界は、夢の世界。 無茶をしているように見える作家も、本人は夢を追い掛けているので、誰も責められない。
  したがって、皆さんは、自分の好きな絵、好きな傾向だけに目を向けることをお勧めする。 自分の夢を追い掛ければいいのである。
  時代が変わり、美術の潮流が変わろうとも、個人の好みを誰も非難できない。 自分の好みをハッキリと主張すれば、そこにその人の王道がある。 人は人、自分は自分。 それが、正解。 
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テーマ:アート - ジャンル:学問・文化・芸術

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