7,8年以上前になるか、私が、まだ阿佐ヶ谷で、絵画教室をやっている頃である。
阿佐ヶ谷の教室は、夜、6時からであった。
すでに、阿佐ヶ谷から船橋に引っ越していて、1時間かけて通っていた。早く着いたので、喫茶店に入った。ちょっとコーヒを、というのがいい。
席を物色していると、一番奥で、入り口に向かって座っている人物を発見。永島慎二先生である。「先生、お久しぶりです。」と挨拶する。
知る人ぞ、知る漫画家である。70年安保世代の漫画愛好家にとって、神様的存在である(知らない人は、ネットで検索すると、ドッと情報が出てくる)。
私が先生と知り合ったのは、まだ、22歳の学生であった。そのうち、私も武蔵野市の実家を出て、阿佐ヶ谷に一人移り住んだ。当時、阿佐ヶ谷の夜の飲み屋では、芸術談義、漫画談義、音楽談義が飛び交い、石を投げれば、アーテイストか、アーテイストの卵に当たった。
そのぐらい、何かしてますヤングマン、ヤングガールが多かった。私もそのうちの一人であった。青春してたわけです。
永島先生とは、久しぶりであった。私は、絵を教えながら、展覧会に発表する絵を描いていると告げた。
「田屋君、頑張ったら、ダメだよ。のんびり行きなさい。」、先生はそう言った。いまだに、その意味が分からない。
先生は生来のなまけ者である。ぶらぶらして、人間を観察するのが、好きなようである。だから、そんな、のんびりしたことを言ったのか、それとも、何か達観した考え方なのか、いまだに、分からない。
それが、先生に会った最後になってしまった。不義理者の私は、人から聞くまで、二ヶ月近く、先生が亡くなったのを知らなかった。訃報を聞いた時、切ない気持ちを抑えられなかった。私の阿佐ヶ谷時代の青春が、終わったと思った。記憶は、私の知らないところで、引きずっていた。
あの時代、私の心の中に先生が密接に絡んでいた。先生は、若者の青春の象徴であった。あそこにいたものは、たぶん、皆、そうではなかったか。
永島先生は、なつかしい記憶とともに、飛び立ってしまった。18歳の時、友達の井上が見せてくれた、「漫画家残酷物語」。「この人、すごいぞ!」と言っていた、友達の目の輝きを、ふと思い出した。
スポンサーサイト
|