大学卒業後、実家を出て、阿佐ヶ谷のアパート暮らしをしていた。アルバイトしながら、絵を描いていた。
イラストレーターの立花尚之介さんは、私より六つ上で、いまでこそ、絵本作家として、その地位を確立しているが、当時は三十代そこそこで、売れないイラストレーターであった。阿佐ヶ谷の巨星、永島慎二先生から紹介された。
立花さんの住むアパートに、行ってみると、青白い顔をした立花さんが、休憩していた。六畳の和室と四畳半ぐらいの台所がある。それでも、六畳一間の私の所より広い。
玄関の入り口には、アトリエ、「ラ・ピンチ」の看板がある。「チンピラ」を逆さにしたらしい。
立花さんは、183cmの長身の上に、長く伸びた髪と、もみあげ、口ひげに、あごひげをはやし、これ以上ない完全武装のアーテイスト・スタイルであった。その立花さんが、青い顔をして、台所のテーブルの向こうに座っている。
私は、遊びに来たのである。確か、そう誘われた。立花さんの話は、こうである。大きな仕事が入った。200ページだかの本に、毎ぺージイラストを描かなければならない。締め切りを一回延ばして貰ったが、終わらない。そこで、援軍を頼んだ。私である。
当時私は、月刊誌の穴埋め原稿(絵)を描いていて、それが、年一回か、二回出る。一ページ大の絵で、一回出ると、四千円であった。それでも、仲間うちでは、原稿料を貰っている、クラスにカウントされていた。
当時の阿佐ヶ谷には、自称が多かったので、出版レベルに達していない若者は、ゴソッといた。つまり、私は曲がりなりにも、プロ扱いされた。二十四、五才のころである。
遊びに来て、それから、二日帰れなかった。東京駅の八重洲でラーメン屋の出前のアルバイトをしていたが、体調が悪いと、ウソをつき、立花さんは、出版社に同じようなウソをついて、締め切りを延ばして貰っていた。
あの二日間は地獄であった。六畳の和室にフトンがワンセットだけあり、彼の奥さんと、三人で替わる替わる寝た。奥さんが、朝アルバイトに行くと、立花さんが寝る。そのあと私。
私がアイデアと絵を描き、それを立花さんがライトテーブルで描き写すだけとなった。もう、何日も寝ていないので、立花さんは描き写すことしか出来なかった。私も眠たいが、向こうは、もっと、眠いので、自然、私の役割は重くなる。
今思うと、立花さんは、あの仕事に命を賭けていたように思う。その後、立花さんの仕事は、順調に行ったみたいだ
遊びに来いと言われても、簡単には、出向かなくなったのは、言うまでもない。
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