|
|
プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
|
|
最近の記事 |
|
|
カテゴリー |
|
|
カレンダー |
05
| 2023/06 |
07
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
- |
- |
- |
- |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
- |
|
|
最近のコメント |
|
|
FC2カウンター |
|
|
FC2ブログランキング |
|
|
ブログ内検索 |
|
|
RSSフィード |
|
|
|
缶詰 <エピソード> ‘09/4/11(土) |
20代の後半、原稿を描くために、缶詰になったことがある。
「缶詰」という言葉も、業界言葉なのであろう。分からない人のために説明すると、作家などが、原稿を書くために、ある場所に拘束され、原稿を書かされることを、缶詰と言う。
缶詰は、集中的にコトを行う時に、特に締め切り間近とか、することで、つらい作業である。
私の場合は、本のイラストを描く作業であった。
私の古い友人に、柴田という名の男がいる。彼は、私が、十代後半のバンド活動をしていた頃の、リードギターリストで、その後、音楽業界に入った。
同じ大学の友人でもあるが、ある日、彼のところに音楽出版社からギターの教則本の出版依頼があった。教則本1冊を書くということである。 それで、中のレイアウトと挿入イラストの依頼を、私の所に持ち込んで来た。私はその頃、すでに雑誌で仕事をしていたので、私の所に持って来たのであろう。 私は、一も二もなくOKした。私との共著にしようと柴田が言った。
出版社との色々な打ち合わせの末、京王線の高幡不動にある柴田の実家で、3日間缶詰となった。 この3日間で、本1冊分の文章原稿、レイアウト、イラストのアイデアを作るという強行軍であった。本1冊分の仕上がりイメージを作るのである。
柴田は、私と同じく実家を出て、JR阿佐ヶ谷のアパートぐらしであったが、久しぶりに息子が家にいるというので、両親は大喜びであった。 私も十代の頃から、お邪魔していたので、十分顔見知りであった。
柴田家は、オヤジ様が、大手会社のお偉いさんで、立派な家であった。一階は広いが、二階は、二部屋だけで、柴田の部屋と隣に妹の部屋があった。すでに二人とも自立し、二階はそのままであった。 なんで二階が、二部屋だけなのか、その頃は考えもしなかったが、今の私ならその理由が分かる。 つまり、子供たちが自立して、家を出ることを考えたら、夫婦二人の老後は、一階だけの方が、楽である。年寄りは、階段の上り下りがつらい。それで、両親の寝室は、一階にあった。そこまで考えて作ってあるなと、今にして思う。 それはともかく、私が、居座ったのが妹の部屋の方である。ここが、私の簡易宿泊所になった。
部屋がそのままなので、妹の部屋には「タイガース」(阪神タイガースではない、人気バンドだった沢田研二のいたタイガース)の写真が貼られ、女の子らしく、縫いぐるみが大小取り揃えて置いてある。 部屋の壁紙やカーテンの柄までも女の子の部屋を感じさせ、イラストを描く環境としては、最悪であった。
隣の部屋で、柴田は一日中文章原稿を描いていた。一区切り出来上がると、私の所に持って来た。 原稿が上がると私の仕事である。それを、切り張りしてレイアウトし、余白にイラストを鉛筆で描き込んだ。 私は、「スーパーギターマン」(だったか忘れたが)のキャラクターを作り、スーパーマンと同じような格好させ、胸にギターの「G」のマークを付け、その彼が、少年にギターを手ほどきするという設定にした。
柴田が、エラク喜んだ。狂言回しに人物を設定すると、展開が楽なので、そうしたが、友人のウケは良かった。時々、柴田が気分転換にわが仕事場を訪れ、私の作業を面白そうに見学した。
膨大な仕事量であった。本1冊三日間はきつい。イラストも小さいカットまで数えたら、ゆうに100カットは超える。柴田は、予定を変えない意志の強さがあったので、本当にやる気なのだろうなと思ったら、本当にやってのけた。それで、私も全部やる羽目になった。
途中、柴田のオヤジ様が、陣中見舞いに二階に上がって来た。 若者が、一生懸命仕事をしている姿は、微笑ましく映ったことだろう。今の私なら、そのことが良く分かる。きっと、うれしかったのかもしれない。
柴田の母親には、三度の食事の面倒を見てもらい、やっていることは、キツかったが、今から考えると、貴重な体験であったような気がする。
その後、本は完成し市販された。印税形式であったが、あまり売れなかったらしい。 世の中そんなに甘くない。
若き日の物語である。
スポンサーサイト
|
|
|