|
|
プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
|
|
最近の記事 |
|
|
カテゴリー |
|
|
カレンダー |
11
| 2023/12 |
01
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
- |
- |
- |
- |
- |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
|
|
最近のコメント |
|
|
FC2カウンター |
|
|
FC2ブログランキング |
|
|
ブログ内検索 |
|
|
RSSフィード |
|
|
|
思いついたことは全てする <研究所レベル> ‘08/12/11(木) |
このことは、制作の基本姿勢である。
何故かといえば、思い付いたのが本人だからである。 制作の中の自分は、思い付いたところにあると言える。
創造的作業に、範囲の限定は禁物である。 もっと自由に、もっと自由にと思っても、実際は、日々の仕事や雑用の中で過ごす人がほとんどであろう。もっと自由にを連呼し、自己啓発しても制作的開放感は中々得られないことが多い。
魂を開放して、自由になりたいものであるが、現実は厳しい。 そんな中で、頭に勝手に浮かぶのが、思い付きである。発想・アイデアとも言う。 思い付きは、本人の事情は全く考えない。最悪の状況の時に、最高のアイデアが浮かぶことだってある。
つまり、思い付きは、その思い付く構造自体が、日々の生活とは、隔絶していると言える。それ自体が、自由なのである。 自分の中に自由な領分が存在する。
大体、本人の体の不調、精神的不調は、体の各部分に影響するものである。医学的にそういうことらしい。体は、皆どこかで繋がっている。そういう理屈が一つある。 一般的な理屈であるが、しかし、その繋がりと関係なく機能するものがあるとしたら、興味深い。
体の中枢と繋がっていなければ、体は充分な年齢に至っていても、隔絶した部分は、いまだ健在もあり得るのである。それが、思い付きの構造だとしたら、これほどありがたいことはない。
さて、制作の中の自分は、思い付いたところにあると述べた。 それは、そもそも思い付きは、思考回路から飛び出してくるからである。思考回路は、理屈の回路であり、思い付き・アイデアは、理屈がないと出てこない。理屈があって、思い付くのである。 その思考は本人そのものであるので、希望・欲求・夢・願いといった、要素も当然関係してくる。
しかし、描き手は、案外閉鎖的で制作の範囲を限定したり、今やっている事以外の思い付きは、排除することもある。 自分の中の自由な領分の中から飛び出した思い付き・発想・アイデアが、いかに自分の願いを反映しているかを考えるべきである。
だから、思い付いたことは全てする、という話になる。思い付いたところに自分がある。そこに自分があるなら、思い付いたことを、その場の状況で排除するのは、問題である。 制作は、身も心も自由でないとならない。自分の中の自由空間から手に入れたものは、何物にも替えがたい宝である。
そして、その自由空間は、自分でも気が付かない、深層的、かつ本能的な欲求だとしたら、無視できないはずである。
制作には、不確かなことが多い。だから、確かなことは、思い付いたことを、手に握って離さないことである。
最近、図書館で横尾忠則氏の分厚い本を見つけた。ありとあらゆる絵が描いてあり、脈絡はない。思い付いたことを全部描いて本にしてるということだろう。 だた、感心したのは、氏がアイデアと格闘している様が、見て取れた。自分の中から出てきたアイデアの、正体を探ろうとしているようにも思えた。
それが、プロのやり方である。
そういう考え方が出来れば、一歩前進。
スポンサーサイト
|
|
|