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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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子供の絵と芸術 <キッズコース> ‘08/11/21(金) |
子供の絵を以って芸術だと言い切ってしまう人がいる。
さてどうだろうか?
確かに子供の絵を見て、感動することはある。すごいと、思ったりする。これは、絵を専門にしている人に多い傾向だと思う。 しかし、感動したからって、いきなり、芸術までいくのもどうかと思う。
そもそも、芸術と言うのは、子供向けではない。そこに無理がある。 確かに、芸術は、純粋な心が、基盤になっている。子供ぐらい純粋なものはないので、その純粋・純度ということで、芸術が出てきたのだろう。
もし、純粋でありさえすれば、芸術になり得るのであれば、子供の絵に優るものはない。小さい子ほど純粋である。 純粋とは、世俗的傾向に惑わさられずに、自分の考えを全うする傾向を意味する。
子供が、嫌だと主張することこそ、純粋である。これが嫌、あれが嫌と遠慮なく言うことは、純粋な自己表現であるし、大人は真似できない。
これは、もうお分かりだろうが、小学生の話ではない。小学生は、純度からいったら、すでに、相当、世間慣れしていることになる。 純度は、低い。
やはり、小学生未満、特に4才後半から5才までぐらいである。この頃の年代は、その純度が一生のうちで一番のピークを迎える。 ほとんどの子を、天才と言いたくなる年齢である。 もっとも、芸術的な感性に近づく年齢でもある。
さて、ここで、芸術について少しご紹介しよう。
芸術に必要な要素は、まず、前述の純度である。そして、作る、または、構築するという技術的なこと、最後に年齢がくる。 この年齢は、当たり前のこととして、考えられるので、指摘する人はいないが、ここでは、特に必要なので付け加える。
要するに、大人のセンスが必要であるとの意味になる。 この三つの要素が、芸術をするに当たって必要だと言う話である。
ところが、この要素の中に、敢えて入れてない要素がある。それは、オリジナリテイーという要素である。つまり、個性のことであるが、独自の発想とか、独自の表現方法といったものである。
これは、芸術論を語る際に、なぜか省かれる要素である。 芸術は、皆が公平に目指し、行うことが出来るという考えに基づくもので、オリジナリテイーがないと、芸術にならないとすると、ごく一部の才能ある者たちのものと、なってしまうからである。
それは、開かれた芸術の観点からすると、まことに具合が悪い。 才能がない者は、芸術をしても意味がないことになる。
話が長くなるので、これくらいにするが、このオリジナリテイーが、既存の芸術作品の必要要素であることは、確かである。 そして、このオリジナリテイーと純度だけの組み合わせで、アートと呼ばれているものがある(アートと表現を変えたのは、芸術との表現では、少し違和感があるのと、重たいためである)。
それが、アフリカンアートに代表されるエスニックアートであるが、もう一つここに、子供の絵が、挙げられる。 つまり、子供の絵は、その純度・個性において、芸術とは言いにくいが、アートという言い方なら、言えるということである。 それほど、すばらしいと言える。
子供に芸術は、無縁である。それは、確かである。しかし、その産み落とされた作品は、相当芸術的であることも、確かである。
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