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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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言葉の伝達性 <エピソード> ‘08/11/15(土)
   テレコテレコという言葉がある。
関東の人間は、この言葉の意味が分からないと思う。

   私も、大分前にやっていたバイト先で言われた時は、意味が分からなかった。

そのバイト先に京都出身の人がいた。30代半ばの女性であるが、私に、「テレコテレコで並べてくれ」と言った。
   「テレコテレコ?」「何?それ?」
そう、私が答えると、「東京では、そう言わへん?」と不思議そうに言った。
   「テレコテレコ」とは、「交互に」という意味らしい。
   
私も、京都には一時期何度も出掛けて行ったが、「テレコテレコ」は聞いたことがなかった。
   日本は意外と広い。

これだけ、関西弁が流通していても、知らない言葉がある。
   「テレコテレコ」が、方言なのか、俗語なのかよく分からない。おそらく方言であろう。
   方言だとすると、随分前から使われていたと思うし、方言は、あまり変化しなそうである。

   しかし、これが俗語となると話が違う。なぜか、昔から俗語は、増加の一途を辿っている。

   例えば、関東地方で発生した「ダサイ」という言葉を、皆さんご存知だろう。今では、ポピュラーであるが、これは関東の方言ではない。俗語である。「だって、埼玉だもん」が縮まって、「ださい」となった。埼玉の方には、申し訳ないが、「関東の田舎者」と言う意味が、最初の意味である。

   一体、この言葉を誰が使い始めたのであろう。
私が、子供の頃にはなかった言葉である。私の記憶では、1974年頃にはすでに使われていた。バイト先の若者が使っていたのを覚えている。
   「ダサイ」が訛って、「ダセイー!」と変化させて、使っていた。

今の小学生は、「ウザイ」と言う言葉をよく使う。「うっとおしい」という意味らしい。「ムカツク」という言葉もよく使う。他に「JK」とか、なんとかかんとか、があると聞いたが、結構たくさんあって、覚え切れない。
   因みに、「JK」は「女子高校生」という意味らしいが、こうなると、俗語というより隠語である。仲間内だけで分かる暗号のような言葉になる。

   さて、一般俗語の代表的なものを並べてみよう。俗語は、品がないのが、特徴である。
   テレコテレコに近い言い方で、「テレテレ」という言葉がある。ダラダラと言う意味であるが、良い使い方はしない。
   「テレテレやってんじゃねえー!」と言う使い方をする。

似たような言葉で、「チンタラ」と言う言葉もある。これもやはり良い言葉ではないが、「テレテレ」と同じように使う。
   「チンタラ、やってんじゃねえー!」

「テレテレ」も「チンタラ」も「のんびり」を非難する時に使う俗語で、「のんびりやりましょう」と言うのを、「チンタラやりましょう」とは、言わない。

   俗語は、品のない言葉という定義がある。これは、旧態依然の制度が生み出した階級意識の産物であり、高貴なものと、そうでないもの、とを分ける定義であるようだが、別に、僧侶と俗世間を分けるという考え方もある。
   いずれにしろ、お下品なのである。

それで、喧嘩腰になる時には、「べらんめい調」のような俗語が、活躍する。
   喧嘩に啖呵は付き物だし、啖呵は、下品に限る。

「ボッケこいてんじゃねー」(ぼけっとしているんじゃない、の意)や、「ザケンじゃねー」(ふざけるんじゃない、の意))とかあるが、喧嘩の時は、怒っているぞと、相手に伝えるとともに、優勢に立つため、恫喝の意味も込めないとならない。
忙しいのである。

   「テメー!シカとこいてんじゃねー!」とか、言えば、威勢が良いが、慣れてないと、そお、ポンポン出るものではない。

   一般社会では、そんなに練習する機会はないので、啖呵は、普段の心掛けがないと、不発で終わる。
   「君!知らん顔しないで!と、言ってんじゃねーか!」と、言ったところで、歯切れの悪さは免れない。

   俗語は、正式な日本語だけでは補えない感情表現またはニュアンスを、補足する形で発生するようである。

   「アッタマー!来た!!」だって、よく考えると、意味不明である。
しかし、こう表現すると、相当憤慨しているのが、よく分かる。

   我々は、感情表現に合致した言葉を、俗語として作り出し、その足りない部分を補うことで、社会生活をより円滑に進行させようとする。一番ピッタリくる言葉を使うことにより、伝達性も高まり、意思の疎通も良くなる。十分怒っているのに、相手に伝わらないのは、ストレスが溜まるってもんである。

   したがって、俗語は人間社会においては、潤滑油のような働きをする。

「てっやんでえー! こっちとら、江戸っ子だあーい!」

   今どき流行らない言葉であるが、江戸弁と俗語の典型的な言い回しも、言葉以上に、そう言った人の出身、気風の良さ、そして人間性をも、うかがい知ることが出来る。  
   その情報は、この短い啖呵の中に正確に、込められている。そして、これから、始まる、争いごとに、一歩も引かない意思をも暗示する。

   これを、正しい日本語で言うと、
「何ですか!私は、東京育ちです!」となる。

   これは、事実を伝えているだけで、微妙なニュアンスとは、程遠い。
「あー、そうですか」で終わってしまう。

   言葉は、文化である。正しい日本語は、もちろん大事であるが、俗語がその伝達性において、一般社会に及ぼす影響は、大きい。

   ある時、キッズコースに通う小学3年生の女の子、O・Aちゃんが、私に向かって、「先公!」と呼んだ。普段、そんなことを言わない子が、怒られることを承知でそう叫んで、私に怒られた。
   もちろん、冗談で言ったのであるが、その時、私はなぜか嬉しかった。
その言葉の裏に、私に対する信頼を感じた。
   冗談でも、よほど、相手と信頼関係がないと、この言葉は、使えない。子供でも、その辺の判断は的確である。
   ヘタすれば、思いっきり怒られるのだから。
もちろん、良い言葉ではないし、一回限りにして貰いたいが、「先生!」と、どんなに親しみを込めても、伝わらないことはある。
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