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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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教科書は一つ <研究所レベル> 08/6/27(金) |
これは、大事なことである。
そもそも、教科書をいくつも用意すること自体に問題がある。この場合の教科書とは何のことかお分かりだろう。師の教えのことである。 教科書とは、そこから全てを学ぶから教科書なのであり、いくつもあったら、参考書というべきである。
今回の、話は教科書なのか、参考書なのかという、話である。
私が、大学3年の年、友達の二年後輩で、当時大学受験生(浪人していた)であった森本君のアパートに遊びに行ったことがある。風呂なしの共同トイレのアパートである。隣の部屋に一ツ橋大学の2年生だったか3年生だったかの学生がいた。
我々(連れに友人柴田がいた)が、遊びに行ったので、その一ツ橋大生も顔を出した。普段は、一応受験生なので、遠慮していたらしい。
私が、その彼に、受験勉強は、どういう勉強の仕方をしたか聞いてみた。私の中学時代の塾の先生も一ツ橋大である。なんとなく親しみを覚えた。
彼曰く、「教科書は、一つで十分である。」
その言葉が意外であった。色々な参考書を駆使したことを期待していた。参考書の利用の仕方が上手なんだと、勝手に勘違いしていた。
さらに、彼が語る。「教科書を徹底的に勉強せよ」「そして、足りない所を、参考書で補えばいい」
この話を聞いた時、驚いた。説得力のある話である。「賢いなー」というのが、その時の印象であった。若干二十歳の若者が、それだけの真理を一つ持っている。
彼は、こうも言っていた。「教科書は、どれも似たようなものだと、だから、迷う必要はない。一つ取り出せば済むことだ」
この考え方は、私の以後の考え方に大きく影響した。
私の教科書は、映周先生である。私は、その教科書しか知らない。私が映周先生の下を離れてからも、色々なアートの人に出会ったが、一度も教科書を代えたことはない。 私が、超の付く生意気な若者であったことも、原因して映周先生と違う考え方は、一切受け入れなかった。
それが、今にして思えば、良かったと思っている。 教科書が一つなら、あとは参考書である。参考書は、教科書に欠けているところを補うもので、参考にするものである。参考書は、教科書にはならないが、いくつあっても問題ない。
その道に生きたものは、それぞれの哲学を持っている。その哲学は、あまりに個人的なので、共通項が少ない。だから、人の話を聞くのは、良いことだが、全部に反応していたら身が持たない。
教科書は、一つあれば、十分である。どの教科書も、経験と知識が詰まっている。 だから、自分と最初に関わった人を師にすると迷わないで済む。
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