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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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少年時代<エピソード> ‘08/6/7(土) |
私が、小学生の時は、どんなだったか、思い出してみよう。
小学3年まで、新宿区の鳴子坂下というところで、育った。 新宿駅から青梅街道が荻窪方面に延びているが、1キロぐらい下ると青梅街道が鳴子坂下という坂下になり、淀川という川が左右に縦断している。
そこから、中野に向かって登り坂になるのだが、この坂下が私の住んでいたところである。
子供の記憶でも、決して広い場所ではなかったが、20才過ぎて、この地に母親と訪れたことがあった時、道幅が余りにも狭かったのに驚いた。
子供は、自分の身長分でものを記憶する。青梅街道から結構引っ込んだ所に、住んでいたアパートがあったように思ったが、実際は、100メートル足らずであった。
この頃、絵を描いた記憶は無い。今のように塾に行く子もいない。子供は風の子、大人は火の子と、よく祖母が言っていた。文字どうり、寒い冬も外で遊びほうけた。学校の勉強は、劣等生である。
小学4年になった時、武蔵野市の小学校に転向した。東京都の郊外である。 家のポストに入っている手紙に、「東京都下武蔵野市・・・」とあり、「都下」という漢字を覚えた。
小学生にとって、遊び場が豊富なので、「都下」の暮らしは、天国であった。小学生時代の記憶は、ほとんどこの武蔵野市の記憶である。
勉強は、相変わらず劣等生。成績順で言うと、圧倒的に後ろから数えたほうが早い。成績のいい子は、自然とクラスの人気者になっていく。そこが、つらいところであった。
この頃から、なんとなく絵の上手い子と言われ始める。あとは、運動である。運動神経が良かった。 これは、親の面目躍如たるものがあった。父が絵描きで、母が高校の体育の教師である。
不徳の息子は、親の最低限の面目を保つことに留まった。
少年時代の記憶は、なぜか夏の太陽の記憶である。冬の記憶はあまり思い浮かばない。唯一、思い出すのは、冬でも短パンで学校に行っていたことである。セーターにジャンパーを着ていたが、下は短パンであった。祖母が、どうして寒くないのか不思議そうな顔をしていたが、私は、その格好が気に入っていた。
夏の記憶は、多分夏休みの記憶であろう。暑い日中は、外に遊びに行けなかった。夕方涼しくなると、許しが出た。 セミの鳴き声、ヒマワリ、麦わら帽子、うっそうと茂る木々、草木、入道雲、青空。そんな記憶が、その時のにおいとともに甦る。
東京都下の夏休みは、子供のためにあった。いつも手が汚れていた。きれいであったためしがない。 秘密基地や木の上の小屋作りに夢中になった。スイカを盗んで、兄に取られた。仕方なく、また取りに行った。 自転車で遠出をして、ヨーロッパの風景にあるような丘と広大な森を発見した時には、興奮した。 思い出すだけでも、随分色々なことをした。怒られもした。
中学生になるちょっと前の6年生の時、何気なく手を見た。きれいであった。
大人になったと、その時思った。
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