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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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銃で板を打つアート <研究所レベル> ‘08/4/11(金)
   こういった一見乱暴なやり方をするアートは、存在する。

こういったやり方をするアートを茶化したものか、ハッキリしないが、外国漫画で、似たようなものを、以前見たことがある。

   それは、板にいくつも五線譜が書かれていて、音楽家らしき人がパイプ片手に拳銃で五線譜に穴を開けている。バーンと撃っては、五線譜を左から順に穴を開ける。どうやら、作曲の最中という漫画であった。

   銃で板を打つアートも、拳銃で作曲することも、銃という現実的な凶器と芸術とを結びつけたミスマッチに人々の驚きがある。
   漫画の話はともかく、銃で板を打ち抜いて、果たして芸術に成り得るかということは、いかがか?

   こういうアートは現代美術に属するが、芸術に成り得るかといえば、成り得ると答える。

   現代美術について少し解説しよう。何を持って、現代美術かといえば、起こり初めの1950年代頃の趣旨はともかく、今現在混沌としている。

   少なくとも初めは、美の拒絶であった。ヨーロッパ美術に代表される限りない「美」の追求に終止符を打つべく誕生したのが、現代美術であった。
   また、キャンバスや紙、布などの基本的な支持体を離れ、支持体選ばずの傾向も加速した。

   「美」の追求を止めたら、それに変わるものは何か?

端的に言って、「インパクト」である。インパクトは、ヨーロッパ美術等にも昔からあったのであるが、「美」と抱き合わせであった。「美」があるからインパクトがあるという理屈である。
   そもそも、絵とは、芸術とは、人にいい意味での衝撃を与えるためにある。いい意味での衝撃を与えるものの内、最高のものを名画と言った。逆に衝撃を与えることが出来ない絵を駄作と言った。

   人に衝撃を与えることが出来る者を、才能があると言い、衝撃を与えることが出来ない者を、才能がないと言う。

   つまり、芸術または、軽く言ってアートはすべからく今も昔も、インパクトと共にある。
   そのインパクトから「美」という基準を切り離すと、インパクトだけになり、人々の受ける衝撃は、いい意味にも、悪い意味にもなっていく。

   悪い意味の代表がブラックアートで、汚いこと、気味悪いこと、臭いこと、生理的嗚咽感を増幅すること等々、インパクトの限りを尽くす。人々が一番嫌うことであるが、芸術的論理でいくと、これもありになる。

   この、ブラックアートは、「美」を取り外した反動で出現したものであるが、未だにやっている人がいて、賛否両論結論が出ていない。

   別に露悪的な傾向に行かなくとも、衝撃は他にもある。銃で板を打つアートもその一つであるが、これも一つ間違えて、打つ場所を整理して狙い打ったら、まとまった絵と同じになってしまい、ただ、支持体が板だったというオチが付いてしまう。

   やはり、拳銃や散弾銃で撃つのであるから、純粋な銃の持つ衝撃度、恐怖が表現される必要があるだろう。

   さて、現代美術でも「美」を引き継いでいる者もいる。「いい意味」での衝撃の中にこういったものも含まれている。「美」とは言わず、心地よい衝撃とでも言おうか、「美」を屑かごの中から拾い出して、画面に貼り付けている感じである。

   混沌としているのは、このことで、完全に「美」とは、おさらばして、論理性だけを追求する者、ひたすらインパクトのみに終始する者、心地よいインパクトを目指す者、またしても、露悪的なものに終始する者、色々である。

   そして、大雑把に言うと、支持体が古典的でないものを、一括りして、現代美術と言っている。
   現代美術は、額に入れない。現代美術は、形を描いたら造形になるので、絵画(19世紀美術)になってしまう、美を追求したら現代美術ではない、など現代美術にはそれなりに制約がある。
   
   これが、私を悩ませる。
   
これは、おかしいと思わないか?なぜ、制約があるのか?

「美」という何百年も続いた制約から逃れるために、現代美術があるのではないか。現代美術に制約云々を言うこと自体、すでに矛盾している。

   では、本当の自由な芸術は一体どこにあるのか。カンバスに絵を描いても、空気に絵を描いても現代美術は現代美術である。過去のものと感覚が違っていれば、例え額に入っていたとしても、現代美術である。

   現代美術とは、自由なものの考えから生まれる、何物にも束縛されないアートであると、規定しなければ、アホらしくてやってられない。
   19世紀以前の絵画のような巨大な化け物を地球として例えたら、そこから飛び出すのにあらゆる可能性を模索し、そのこと自体を良しとしなければ、引力のほうが圧倒的に強いのは、考えるまでもない。

   現代美術を制約することは、現代美術を守るにあらず、足を引っ張っているにある。

   私は、そう考えるが、どうか?
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