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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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日本人論 <エピソード> |
私が、二十歳の時、友達4人と京都旅行に行ったことがある。若者も、京都には思い入れがある。京都こそ日本である。と思っていたのかもしれない。日本に触れたい気持ちは、おそらく全員にあったと思う。
では、現代の若者は日本人なのか?
乱暴な問いかけをわざとする。 様々な国の若者を、一同に集めれば、日本人の若者は、やはり日本人らしい感性とモラルの持ち主であることを、証明することだろう。それは、環境が日本人を育てるという証明でもある。
では、日本人の中での若者は、日本人かと問えば、「否」と答える。多国籍人と呼ぶのが、私には、ぴったりくる。特に十代はそうである。十代の若者は、日本人になりきれていない日本人であると常々思う。 因みに、私がイメージする多国籍人とは、多国籍に感覚を吸収する人種のことで、自国の感覚を、もっとも吸収しない人種のことである。
十代の若者の関心事は、今も昔も外国文化である。その上、大人への反発、将来への不安、異性の問題、世間への不満、自分に対する懐疑心、等々、抱えている問題は、並大抵の量でない。それを、自らのエネルギーでやっと支えて生きている。 そこに、日本的な情緒が入り込む隙はない。それゆえ、日本的な感性は持ってはいるが、日本人にはなりきれない年代である。
それが、二十代になると、抱えている問題も整理され始め、精神的成長は、エネルギーの減少を呼ぶ。同時に、交換するように、日本人としての情緒感、感性、礼儀作法などが、その隙間に少しずつ入り込んでくる。では、日本人になったかといえば、まだであろう。 多国籍人では、なくなったが、日本人というには、まだまだであろう。半日本人というところか。この半日本人状態は、その後、長く続く。 年齢を経るとは、匂いが付くということである。これは日本人の匂いである。だから、若いと中々、匂いが付かない。それが十分付くには時間が掛かるといえば、分かりやすいだろう。 ただ、個人差は当然ある。一般論の話であるし、今の私が、振り返ってみて、友達も含め、そうだったと考えてのことである。
こういう話がある。「人間、四十五歳をもって、大人とす」
これは、人生の半分に達したという、数字である。倍で九十。四十五歳を過ぎたら、もう倍を生きるには、運がいる。そして、これは、日本人になる数字でもあるといえる。
半日本人に日本人の匂いが付き始め、やがて、日本人になる。それが、おおよそ、四十五歳ころだとする考えである。
何をもって日本人とするかは、様々に、異論があると思うが、この国に生まれ、又は、幼い頃よりこの国の教育を受け、この国で生活すれば、この国の人間であろう。日本人であるだろう。肌の色は、関係ない。たとえ、他国に籍を持っていたとしても、日本人に他ならない。
日本人とは、日本という風土が生み出した人間の総称である。良いか、悪いかの話でもなく、ただ、そこに日本があり、日本人がいるのである。 では、日本人とは、いかなるものかといえば、これも結構、感覚的で難しいのであるが、根強いところでいうと、礼儀の問題、辞令の把握、環境への責任意識、文化・伝統への敬意、誇り、等々、どこの国でも同じく、大人としてのモラルの話に次第になっていく。違うのは、風習と情緒感であろう。
おそらく、各国違うのは、風習と情緒感ではなかろうか。日本人になるとは、この日本の風習と情緒感を、身につけるということに、なるのではないだろうか。 特に風習に含まれる礼儀の問題が、常に、一番身近な問題となる。礼儀をわきまえていると、大人だと思ってしまうし、日本人だなと思ってしまう。
私は、小学生を教えているので、彼らのことを、色々と観察する。小学生の方がよっぽど、日本人的である。考えるに、中学生以降から多国籍に足を取られていくのかもしれない。自我に目覚める年頃から、目覚めた先が、多国籍なのかもしれないと、考える。 そして、親の扶養から離れると、多国籍へと一気に加速する。今にして思うに、麻疹のようなもので、大人になるための、通過儀礼のようなものではないか。
さて、日本人には、いずれなるのだが、それには、親の考え方が密接に関わってくる。 私が、思うに小学生の時に決まるような気がしてならない。小学生の時に、親がどれだけ、日本的な環境の中で、育てるかがポイントではないか。
問題なのは、小学生の親は、おおむね半日本人であることが多い。さらに時代とともに、この半日本人の親は、ドライ化していく。
子供の遠足に、コンビニ弁当を、平気で持たせる親がいると聞いた。子供がそう望んだとしても、それは、主義主張の問題であり、言い訳できない。将来、その子の子供も確実に、コンビニ弁当を持たせられる。
コンビニ弁当が悪いのではない。利用の仕方が悪いのである。私の母親は、高校の体育の教師だった。おまけに、料理が下手であった。 しかし、私の小学校の遠足の時に、3時起きして、お稲荷さんとかんぴょう巻きを作ってくれた。今思うと、それが子供への愛情というものである。子供をはぐくむのは、日本的な環境であるが、その中には、日本的な愛情の示し方も入っている。
したがって、私が、問題視するのは、年を経て日本人になった時、どのくらいの濃度の日本人になるかということである。日本人は、日本人でなくてはならない。
これは、国粋主義とは関係ない。世界中に共通する、自国への警鐘の話である。自国の文化、風習、伝統が滅び行くを良しとしないのは、何も私だけではないだろう。日本人としての濃度が薄まれば、それに伴って、文化や風習、伝統が消えていくのは、考えるまでもない。
小学生が言う。「先生、味噌汁は、ご飯には欠かせないよ」 それを、聞いた時、なぜか、ほっとした。
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