さて、落書きを怒る理由がないと、書いた。
落書きも、制作と考えると、栄養たっぷりの制作であり、自ら進んで、その制作をすることに、異論はない、ということになってしまう。
これは、どういうことかと言うと、絵の教室は普通の習い事と違う。親御さんは、どお、思っているか知れないが、落書きもありだし、遊びながら描くのも、ありである。
ウチの子は、まじめにやってますかと、聞く親御さんは多いが、学校や学習塾と一緒に考えているようである。絵の教室は、情操教育を専門とする場である。
芸術とは、言わないが、絵というものを、広く、豊かに考える場である。子供の教育の、もっとも、高尚な部分担当しているのであって、まじめが、いいとは限らない。
何が、どう、子供を豊かにするのであろうか。
ピアノの教室は、技術系なので、教則本があり、それを、繰り返し練習することで、成り立っているのだろう。バレエもしかり。何かの技術を教えることで、成り立っている。今の子供は、色々な習い事をしているが、それが、どこまで、情操教育と結びつくかが難しい。
我々が、子供の時は、どうであったか。少なくとも、塾はあったが、ピアノや、バレエ、水泳、ましてや、絵を習っている子は、少なかった。少ないというより、私の周りには、皆無であった。
時代が違うが、子供の状況は同じである。私は、小学生の頃、地面を掘って地下室を作ろうと夢中になった。木の上に、家を作ろうと、友達と計画したこともある。取り残された防空壕も探検した。自転車で、どこまでも行った。遊びは自分たちで考えた。
情操教育とは、子供の遊びの中に潜んでいると、私は考える。習い事が出来なかった分、自分たちで必要な栄養を補給した。そうやって、色々なことを学んだ。そのこと自体が、情操教育になっているとは、言わないが、基盤には、なっていると、考えられる。
何かを教えられるのではなく、自ら考え、学ぶことが、情操教育の第一歩なのではないか。
子供たちに、勉強以外で、必要なのは、考える場である。絵の教室は、その考える場を提供すれば、いいと考えている。考え、実行できる環境を提供し、遊びながら作り、考えながら作り、また、遊びながら作る。
遊びながら作っている時の、子供たちの頭の中は、驚くほど柔軟である。その柔軟さが、情操教育には、最も必要な要素であると、私は考える。
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