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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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<教室日記>2014・1・27(火) |
「ブログ講義」 (ルーベンスとダリ)
さて、今年最初のブログ講義をしよう。 画面についての解説は、今までに何回かしてきた。 私の専門分野なので、自然に回数が増えてしまうが、今回もまた、ルーベンスとダリの作品を通して、回数を増やしてみようと思う。 この二人の作品は、美術館で原画を見たので、特に、解説しやすい。
ルーベンスは、ピーテル・パウル・リュベンスといい、英語読みすると、ピーター・ポール・ルーベンス。 バロック期のフランドルの画家であり、17世紀を代表する巨匠である。
注)バロック期=16世紀末から17世紀初頭にかけ、イタリアで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式。 注)フランドル=オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。
一方、ダリは、サルバドール・ダリといい、スペインの画家。 20世紀初頭生まれで、シューレアリスムの代表的な画家として知られている。 シューレアリスムは、日本語訳で超現実派。
なぜ、ルーベンスとダリなのか、不思議に思われるだろう。 時代も、絵画思想も全く異なる二人だが、共通点は少なくない。 まず、超写実。 二人とも極めて写実的な絵を描く。 次に、超自然。 動的。 フェルメールの絵が止まって見えるくらい、二人の絵は動的要素が強い。 そして、発想力。 二人とも旺盛な発想力を持つ。 活躍した時期に、およそ、300年の開きがあるのに、これだけの共通点があるのは、珍しい。
この中で、超自然が共通点なのは、疑問に思われるかもしれないが、ダリはともかく、ルーベンスがなぜ、超自然なのか?
まあ、答えと言ってはなんだが、ルーベンスの絵には、羽根を生やした天使やワニや怪物、トラなどが平然と出てくるからと言っておこう。
つまり、二人とも自然界の法則に拘らずに、描きたいものを平気で絵の中に突っ込むという共通点がある。 こういうやり方は、写実の枠に縛られないことを意味する。 写実主義の一番の難点は、帳尻合わせ。 簡単な話、水は上から下に流れるし、空の上に地面はない。 人間は、カラ身で空を飛べないし、ヨーロッパにトラはいない。 おそらくワニも。 したがって、人が不思議がるものは、画面の中に描けないのである。 帳尻が合わなくなるから。
このことは、旺盛な発想力を持つ人間からすると、極めて都合が悪い。 画面の中に混乱を盛り込めないからだ。 発想は、しばし混乱を呼ぶ。 発想自体に制約がないから、頭に浮かぶものは浮かぶ。 浮かんだものは、画面に盛り込みたい。 そのため、浮かんだものをそのまま画面に突っ込めば、時には、画面に混乱が生じる。 それを平然とやれば、超自然派になる。
それで、ルーベンスとダリは、超自然派だという話。
超写実に関しては、異論を唱える人は、少ないだろうが、超写実と描写力は必ずしも一致しない。 描写力だけに絞って言うなら、ルーベンスのほうが、ダリより一枚も二枚も上であろう。 ルーベンスの写実描写は、各時代の歴代の代表的な画家の中でもトップに位置するだろう。 ルーベンスより上はいない。
描写の神様である。
動的なことと発想力については、二人とも見事に一致する。 実は、動的な画家は、意外と少ない。 静的な画家と比べると、動 1 に対して静 5 くらいの割合でないかと推測する。 つまり、圧倒的に静かな絵を描く画家が多い。 これは、上野の東京都美術館、六本木の国立新美術館を一回りすれば分かる。
ルーブル美術館のフェルメールの展示室には、長い行列ができると言う。 絵画愛好家の好みの割合も 1 対 5 なのかもしれない。 しかし、面白いことに、動的な絵を描く画家に才能のある人が多い。 これは、絵を描く場合、普通に描くと、デッサンの延長で、絵は静的になりやすい。 それに対して、動的な絵を描く人は、そもそも動きに敏感なので、わざわざ動的な絵を描く。 初めから、素質というふるいにかかっているので、才能ある人が多いというワケ。
動的な画家の大きな特徴は、圧倒的な画面を目指すこと。 発想力が豊かなことが挙げられる。 日本では、写楽や北斎などは、まさに、これにドンピシャで当てはまる。
残念ながら、著作権の関係から、ここで、作品を比較紹介できない。 興味のある方は、ネット画像で、ルーベンス、ダリ、写楽、北斎など、名前だけで検索すれば、ズラーと出て来るので、ご覧頂きたい。
さて、これだけ共通点のある二人だが、ルーベンスとダリが決定的に違うところもある。 それは、画面の作り方。 これについては、決定的に違う。 ルーベンスは、とかく描写力に目が行きがちだが、実は、画面作りが非常に巧みなのだ。 とにかく、周到で、画面の隅々まで、無駄なく使い切る。 このことは、ルーベンスが、画面に非常に強かったことを意味する。 そのため、画面を自由に操り、より効果的に、より圧倒的な画面を作り出す。
一方、ダリの画面は、アイデア一本勝負。 画面における絵画的構成はほとんど考えていない。 それが、ダリらしいシュールな絵として定着しているが、しかし、現代絵画が存在する現代ならいざ知らず、この時代は、画面の構成は、それまでの具象絵画の構成をそのまま、抽象にひっくり返したのが、最前線の時代である。 つまり、ピカソにしろ、カンデンスキーにしろ、具象の構成画面をとっていない者は、ダリを除いていない。
抽象画が出始めた20世紀初頭において、抽象画という新しい絵画の方向を模索し、それまでの具象絵画では、考えられなかった画期的な表現を作り出したように見えて、その実、ただ、具象をひっくり返しただけだったと言える。
もちろん、今だから言えることだが、画期的だったのは当時のことで、画面における構成に関しては、具象画となんら変わりはなかった。
しかし、ダリは違う。 ダリの絵のほとんどは、それまでの具象画の構成をとっていない。 あるべきところの画面の抑えとか、具象画では当たり前のようにする方法論を無視している。 つまり、今でいう、イラストレーションやマンガの画面と同じなのだ。 中心となるアイデアを活かすために、それ以外の煩わしいものは、切って捨てる。 画面の抑えなんていらない。 インパクトがあればいい。
こういう考え方は、現代美術になって出現したもので、ダリがシュールな絵を発表し始めた20世紀の初め頃にはなかった。 そう考えると、ダリは、シューレアリスムの画家というより、現代美術のパイオニアだったと言えなくもない。
一方、ルーベンスもある意味パイオニアだったと言える。 現在の美術界では、画面の作り方には、洋画に関して共通認識がある。 皆、それぞれ勝手に描いているようだが、画面の作り方には、寸分の狂いもなく、共通した感覚で描いている。
美術界では、絵で飯を食える人間をプロとは言わない。 芸大の先生方は、絵で飯が食えないから、先生業をしていると言っても過言ではない。 では、絵で飯を食っていないから、アマチュアだと言えるだろうか?
美術界では、この共通認識を持っている人間をプロと言う。 そういうプロの中に、絵で食える人と食えない人がいるという順番になる。
そこで、話を元に戻すと、この共通認識を生み出したのは、実は、ルーベンスではないかと、私は考える。 16世紀のルネッサンス期に、この共通認識で描いている画家はいない。 ミケランジェロにしろ、ダ・ビンチにしろ、描写力を飛躍的に発展させたところで、息が切れて、画面作りの研究までは、手が回らなかったのではないだろうか。
したがって、ルネッサンス期の絵画の中に、現代の絵画画面における共通認識を見つけることは、はなはだ、難しい。 画面の作り方が、どの巨匠達もどこかチグハグなのだ。 ちょっとズレる。 そのちょっとのズレが、認識してない証拠になる。
ところが、100年も経たないうちに、ルーベンスの画面では、ほとんど100%、共通認識を見て取ることができる。 基本中の基本認識を、余すところなく画面の中で展開している。 共通認識という概念がなかった時代に、自らの感覚だけで画面を構築していたのである。
一人の天才は、自分の感覚を信じて、画面作りの基礎を作った。 300年経って、もう一人の天才が、バイブルとなった画面作りの基礎を壊した。
そういうことかもしれない。
ダリが、モナリザの微笑の写真に、口髭を落書きしたことは、つとに有名な話。 アイデア一杯のダリにとって、ただ、突っ立って、ほほえんでいるだけのモラリザは、我慢ならなかったのかもしれない。 しかし、いかなダリでもルーベンスの絵には落書きしないだろう。 ダリにとって、ルーベンスは、自分とは正反対に位置する純正統派。 相容れられない相手だったかもしれないが、ある意味、師匠だったのかもしれない。 師匠に、反旗を翻す不徳の弟子。 だったかも。
それほど、二人は、よく似ている。
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