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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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<教室日記>2014・6・3(火) |
「ブログ講義」 (感覚についてのエトセトラ)
6月になった。 途端、夏のように暑い。 これから梅雨に入る。 梅雨明けする7月中旬で夏。 日本の季節は、ダイナミックに変化していく。 外国人写真家で、日本の景色を撮り続けている人がいる。 理由は、景色が美しいこともあるが、一年を通して、ダイナミックに変化する景色に魅了されたことを挙げていた。
昔は、日本を知ろうキャンペーンをJRがやっており、「デイスカバージャパン」と、銘打って、JRを使っての旅行の宣伝をしていた。 この時のテーマソングは、山口百恵さんが歌っていた「いい日、旅立ち」 今、NHKのキャンペーンでは、「もう一度、ニッポン」
いずれにしろ、日本を知ることを促している。 いいことだ。 自分の国を知らずして、海外を語るな。 と、言いたくなる。 パリのエッフェル塔に登ったことはあっても、東京タワーには登ったことがない人は、たくさんいそうだ。 それでは、何かオカシイが、まあ、そういうものか。 人の興味は、外へ外へと向かう。
映画バイオハザードシリーズでお馴染みの、ミラ ジョヴオヴイッチさんが、映画のキャンパーンで東京に来た時、インタビューで、言っていた。
「Tシャツを集めていて、東京でもTシャツを買うつもり」 「このTシャツは、東京で買ったのって、ニューヨークで自慢するのよ」
西船で買ったTシャツを自慢するには、外国に行くしかない。 でも、相手が、西船を知らなければ、自慢にならない。 困ったが、まあ、いいか。
さて、ブログ講義である。 今回の題は、「感覚についてのエトセトラ」。 アーカイブ編ではなく、これもまた、今回のための書下ろしである。 近々、会員展出品作品の作者紹介を始める。 最初の作品紹介は、私の出品作品をご紹介しようと思う。 乞うご期待!
よく、私がブログ講義の中で、感覚とか、感覚的とか言うことが多い。 文章の中で便利に使っているが、その実、感覚って言われても、漠然としてよく分からないという人が、いると思う。 それで、今回は、「感覚」 について、語ってみようと思う。
感覚とは、辞書的な解釈だと、「美醜やよしあし、相違などを感じとる心の働き」、とある。 絵の場合は、大雑把に、感じること、または、感じとること、で十分だろう。
感覚には、幸いにして理屈がない。 末端から直接、脳に刺戟を与えるので、途中で、「思考する」という過程がない。 だから、感じたことは、確かなこととして受け止めることができる。 つまり、感覚とは、確かなこと、と、言い換えることができる。
よくある例で、瓶を描き始めた人のデッサンを、チェックすることがある。 瓶をデッサンする時は、紙にタテのセンター線を、まず、描いてもらう。 瓶は、ワインボトルを描くことが多いので、真っ直ぐに立っている瓶は、紙のセンター線が、そのまま瓶のセンター線になり、この線に対して左右対称になるように描く。 ところが、デッサンを始めたばかりの人は、この瓶が、少し右か左に傾くことがある。
この傾きは、3ミリの差が出ると、普通の人にも分かる。 2ミリくらいから、もしかしたら傾いているかも、と思い始める。 私が、傾いていると感じたボトルがあり、あまりにも微妙だったので、念のため、定規で測ったら、1ミリの差だった。 私は、1ミリの差は分からないと、日頃思っていたので、驚いた。
その時に、ボトルの傾きを確かに感じとったということになる。 感覚は、鍛えれば、ほんのちょっとしたことも感じ取れるようになる。 もう一つ他の例を挙げてみよう。 デッサンの濃淡の仕上げの話。 デッサンでは、カタチは感覚なので、難しいが、濃淡は要領があるので何とかなると、よく生徒さんに言っている。 しかし、それは、初心者用で、脅かさないために、やさしく言っているのだが、実は、濃淡調整の最後の最後は、やたら、難しい。
石膏像の胸像を木炭デッサンしている人が、濃淡調整の最後の仕上げをやっていたことがある。 その人は、もういいだろうと、私にOKをとるために、見てくれと言った。
私は、OKしなかった。 その人も、他の生徒さんたちも、なぜ、OKを出さないのか、分からなかったらしい。 私が、OKしなかった理由は、違和感を感じたから。 絵を描いていても、デッサンでも、画面上の各部所が、ある一定の方向へ、きれいに整理されると、違和感がなくなり、描いたものが、
「ハイ!完成です」
と言う瞬間がある。 冗談のように聞こえるかもしれないが、そういうことが実際に起きる。 つまり、そう感じとれるということ。 その木炭デッサンを描いている生徒さんには、どこを直すようにアドバイスできない。 感覚なので、理屈で説明できない。 その感覚を学んでもらうしかない。 感覚は、鍛えることができる。 だから、中級以上の生徒さんには、迷わず、感覚訓練をしてもらう。
そうやって、より高度な感覚世界へと導くのである。 なぜなら、高度な感覚を持たないと、理屈に負けてしまう。 理屈は、確かな面と、不確かな面の両面を持つ。 また、人は、理屈で生きる動物なので、そのため、不確かな理屈に納得させられてしまうこともある。
ここまで、描いてきて、また、何度もチェックしたのだから、大丈夫だろうと自分で納得してしまう。 なんか変だなと思っていても、原因は分からないので、気のせいかもしれないと、不確かな理屈が囁く。 結構、人間は、そういう意味では、アヤフヤなのだ。
そんなアヤフヤな人間にとって、確かなことは、感覚である。 感じること、感じとったことほど、確かなことはない。 理屈より確かである。 理屈を考えるには、時間が必要。 思考するには、思考する順番があるので、時間がかかる。 そのため、混ざり物も混入しやすい。 混ざり物とは、余計な考えのこと。 しかし、感覚は一瞬なので、混ざり物が入り込む隙はない。 一瞬で感じたことは、そのまま、その人の確かなものとなる。
これほど、純度の高い脳の刺激作用は他にはないだろう。 したがって、私が感覚と言う時、感覚という絶対確かなことを、論理展開上の基点としているということである。 絵は、不確かなことが多い。 だから、確かなものが、必要。 それで、感覚という言葉をよく使うというわけである。
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