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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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最初(はじめ)の一歩 <エピソード> ‘08/12/20(土) |
私も若い時から、今のようであったわけではない。
経験もなく、技術もなく、ただ、夢見る思いだけの若者であった。 アイデアが浮かぶが、どうしたら良いか分からないまま過ごしたのである。経験がない分、自分を持て余していた。
誰でも、最初はある。最初は、残酷なものである。好き勝手に言う周りに囲まれて、それでも、しっかりと反論できれば良いが、そうも行かない。反論したくても、こっちの準備が整っていないので、迷いが生じて、言われっ放しと言うこともある。
そんな中で、自分の夢を追いかけないとならない。 自分が何物か分からないのが、余計不安感を煽る。 私は、まだ、独身で東京の杉並区の阿佐ヶ谷に住んでいた頃が、丁度そんな時期であった。 6畳一間のアパートで、将来に夢を見、同時に不安な日々を過ごした。 以前にも書いたことがあるが、当時の阿佐ヶ谷は、自称何々志望が多く、若者の夢と熱気と、絶望を孕んだ場所であった。
少しでもお金があると、安酒を飲んだ。居酒屋で石を投げれば、何々志望に当たるというジョークが、まことしやかに語られるほど、多かったのである。
ここで、4年間過ごした。結婚後30才過ぎてまた戻って来るのだが、20代前半のこの4年間のことを、後日、当時広島に帰郷していた映周先生に手紙を書いた。
「阿佐ヶ谷での、4年間は失敗でした。私は何も掴めず、何も得ることがなかった」 そんな文面だったと思う。4年間で半間の押入れの下半分が描いた絵で埋まったが、私は自分の将来に絶望しかかっていた。27才になっていた。 30代も平坦ではなかった。しかし夢は消えなかった。消えない分、余計苦しい思いをした。 それでも、前へ前へと進むことしか考えなかった。前に行くしか方法がなかったのである。夢を諦めることは、すでに出来なかった。手遅れである。 散々、つぱって、散々、大口叩いて、夢を諦めますとは、冗談でも言えない。 前に進んで何かを掴み取るしかない。そう考えていた。 この頃の私は、ギラギラしていたらしい。そう人に言われて驚いたことがある。
私が、落ち着いたのは、40才に入ってからである。
誰でも、最初はある。誰でも最初(はじめ)の一歩はある。そこから全てが始まる。 そして、最初(はじめ)の一歩を踏み出しても、何もない。 ただ、夢だけが、ひつっこく自分にまとわりついている。だから、何もない、いわば「無」に向かって、止むをえず、最初(はじめ)の一歩踏み出すのである。
しかし、何もない「無」から「有」を生み出すのは容易ではない。「無」の中に、自分の居場所を探さなければならない。ひたすら、探しながら時間は過ぎていく。 これには、相当な試練が伴う。
なぜなら、人間はそんなにバカにはなれないからである。「無」の中に、何もない、何の保証もない「無」の中に、夢だけを頼りにいつまでもいられるものではない。 普通はそう考える。 普通はそう考えるのに、幸運にも、私は相当なバカであったようで、そういう風には考えなかった。そのことが、私の人生を決めた。
40才になって、同じようにその獣道を辿った人達に出会ってから、自分だけでないことを知った。バカは、私だけではなかった。そうなると、ある一つの世界では、そういうバカが、正当化されていく。 「それもあり」 「無」から「有」を生み出すことは、容易ではない。それは確かである。しかし、出来ない話ではない。 私と同じような人間が、何人もいる以上、これからも、そういった人間が、多々出現しても不思議でない。
制作とは、「無」から「有」を生み出すこと。何もない人間が、粘って粘った末に、勝ち取るのが、「有」である。
そして、いつの世も「有」にたどり着くための道は、最初(はじめ)の一歩にこそある。
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