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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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日本人のアート <研究所レベル> ‘08/8/1(金) |
日本人としての一般的な国際的絵画評価はある。
やはり、その繊細さ、情緒感、そして、独特の表現にあると思う。
アートは、その土壌が生み出す。これについて、異論はないだろう。だから、日本に住んでいるものの生み出すアートは、日本的であるはずである。 それが、理屈だろう。しかし、実際は、案外混沌としている。
何故だろう?
人の欲望は、ないものねだりである。当然と言えば当然だが、ないものをほしがる。お金がないから、お金をほしがる。簡単な話であるが、こと、アートの世界でも同じことが言える。日本的な感覚を持ったものが、外国の感覚をほしがる。
西洋人が、逆立ちしても、日本的な感覚は手に入らない。これは、日本人としての自負ではない。事実である。 美意識を含む日本的な感覚は、小さい頃から培われている。物心ついた時からであるので、成人した時は、相当に刷り込まれたものがある。おそらく死ぬまで抜けないだろう。 その感覚は、真似して真似のできるものではない。だから、それを宝と考えたらこれほど安上がりな宝はない。 何故それを利用しないか。
真似して真似のできるものではないのは、外国文化も同じである。上っ面を真似しても理解したことにはならない。おそらく我々には分からない感覚的チグハグがあるやもしれない。
では、感覚を理解していると、どういうことが出来るか考えてみよう。 真似が真似なら理解していることと、どこかで決定的に違いがあるはずである。 思うに、進化することができるということではないか。以前このブログでも書いたことであるが、理解とはそういうものである。 それは、根本的なことを覆すことが出来る。そういうことが出来るのである。上っ面を真似した者にはそういうことは、出来ない。そこが違う。 我々日本人が、日本的な感覚を持ったまま、時代の変化に対応することは出来る。それは、至極当たり前のことである。そもそも、日本的なものが、進化なしに今日に至っているのではない。時代に影響されて今日ある。
それを可能にするのは、その元となる精神にある。元が同じならば、それこそ上っ面は、変化しても影響ない。文化とはそうしたものであると理解している。
西洋美術もそうやって進化を遂げてきた。西洋美術に影響した日本人は多いだろう。しかし、西洋美術を変化させた日本人は、聞いたことがない。 西洋美術は、西洋人によって、変化してきた。それが、その文明を理解すると言うことである。
日本人には、日本人のアートがある。日本人としてやるべきことがある。日本人のアートは、日本人を以ってしか、変えることは出来ない。 それが、日本のアートであり、日本の文化である。
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