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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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<教室日記>2014・5・25(火)
「ブログ講義」
(カンデンスキーが見た夢)

  今週の30日と31日の土日に大人教室の「会員展」がある。 作品発表会。 生徒さんのほとんどが、この会員展目指して一年間頑張る。 
  そのため、5月に入ると受講ラッシュが続く。 出品がギリギリの人が、あせり始めるからだ。 

  田屋も出品するが、昨年は秋の展覧会用のエスキース(試作)を出品した。 今年もその予定だったが、エスキース用の小品を、ドローイング練習のため、描き潰してしまった。 
  旧作ならたくさんあるが、壁サイズが多いため、今年は、自宅の居間に飾っている「楕円」を出品することにした。 
  約20年に亘り、楕円を描いてきたが、この楕円が一作目。 楕円1号。 ここから全てが始まった。



  さて、また、久しぶりにブログ講義をしてみよう。 今回は、抽象画の祖、カンデンスキー。 私が敬愛する画家の一人である。 





  ここに、七つのカタチがある。 丸、四角、バツ、星印、月形、菱形 の七つ。 
この七つのカタチを繰り返し、並び変えて、一つのイメージにせよ。
  
  と、いう問題を出したら、皆さんどうするか。 

立派なアートの出題である。
 

  答えは置いといて、問題の趣旨を言おう。 
これは、2月17日のブログ記事の (一枚の紙と1本の鉛筆でできること) の中で書いた「線の変化」と同じ話である。 

  読んでない方に、一応説明すると、ドローイングの基本練習のこと。

画面上に線を引く。 
  短い線、長い線、太い、細い、曲線、直線、グニャグニャ線など、どのくらい線だけで、変化をつけられるか。 
  画面上のパターンの数をできるだけ増やし、各部分が、一様にならないようにする。 そういう話だった。


  これと同じように七つのカタチを繰り返し、大きくしたり、小さくしたりしながら、パターンを増やす。 
  練習なので、ほとんど上手くいかないが、もし、変化が上手くいけば、何か一つのイメージが浮かび上がって来るはず。 
  それは、まさしく、アート。 
アート作品にもこういうものがある。


  この方法で作品化を目指した者がいる。 

カンデンスキーである。 

  カンデンスキーが目指したものは、画面上のカタチの変化。 変化、変化の連続で、画面をいっぱいに満たすこと。 それが、カンデンスキーが見た夢であった。



  ワシリー・カンデンスキーは、抽象絵画の先駆者として、モンドリアンやマレービッチとともに有名であるが、1910頃から1922年以前の「コンポジション」シリーズでは、画面上のカタチ・線の変化を圧倒的な色彩と構成により表現した。 

  特に、1913年のコンポジションⅥ、Ⅶは、彼の恍惚とした絶叫さえ聞こえてくるようだ。 
  細かく見ていくと、後から何度も加筆した様子がうかがえ、絶叫に至る経緯で、苦しみもだえた様子が見て取れる。 

  変化させ、また変化させることは、精神的な苦痛を伴う。 そう簡単には、変化を続けられず、同じようなカタチの繰り返しになっていくと、精神的にも追い詰められ、しまいには、ノイローゼ状態になるのが、この変化変化の制作である。 

  それに、何とか耐え抜いたら、今度は画面のボリュームとバランスの問題を解決しなければならない。 
  ボリュームとバランスの関係は厄介で、ボリュームを追うとバランスを崩す。 バランスを良くすると、ボリュームがなくなる。
  兼ね合いを探すのが至難の技になるが、カンデンスキーは、これを難なくやってのける。 

「お見事!」 

  という作品を作り出す。 

アートは、いかに粘り、いかに勝利するものなのか、その手本を見るようだ。


  

  確かに、芸術作品がなくても、人は生きていける。 それは間違いない。 

一般大衆にとって、デザインは、色々な分野において広く浸透しているので、デザイン性がなくなると、無味乾燥な生活になる。
  これはシンドい。 だから、デザインは、大衆にとって必要だろう。 

しかし、芸術は、大衆から遠く離れてしまうので、その存在が消失しても、大衆は気が付かないかもしれない。
  それほど、芸術と大衆の距離は遠い。 


カンデンスキーが、見た夢は大衆的ではない。 だから、分からない人には分からない。 残念ながら、一生分からないかもしれない。  
  芸術は、決して大衆に語り掛けない。 ただ、そこにあるが、興味がなければ、存在すら確認できないだろう。
  芸術を求めた者のみが知る精神世界である。 




だから、皆に芸術を分かってほしいとは思わない。 興味がなければ、芸術も何の役にも立たない。 
  しかし、もし、カンデンスキーが無名の画家で、いきなり、コンポジションⅥ、Ⅶと出合ったら、どうだろうか?
  芸術に興味がなくても、かなり驚くのではないか。 「これは、一体なんだろうか?」
  そのくらいの衝撃は、感じると思う。 

私だったら、衝撃は計り知れない。 ハンマーで殴られたくらいの衝撃を感じるだろう。 


  それは、作家が放つ強烈な熱放射であり、芸術が放つ衝撃波でもある。 
  
確かに、芸術は大衆的ではない。 理解する人間も限られてくるが、強烈な芸術という魂は、皆をも巻き込むだけのエネルギーを秘めている。 

  そして、そのエネルギーだけは、誰にでも伝わる。 得体の知れないものとして、人々の心の中に、飛び込んで行く。
  それは、芸術の持つエネルギーであり、芸術の定義を突き詰めると、エネルギーを放射するものということになるから。




  カンデンスキーの見た夢は、魂のエネルギーとして、未だに、人々の琴線を揺さぶり続ける。 


芸術が、なぜ、人類に必要か?


  それは、これほど人の心を強烈に揺さぶるものは、恋する心と芸術しかないからである。






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<教室日記>2014・1・21(火)
<ブログ講義>
「デッサンが上手く描けない」アーカイブー2007年12月14日のブログより

  冬は、いい天気が続くので、気持ちがいい。 寒いので、せめて天気は良くありたいわけだ。 
  そういう意味では、雪の日が続く北国は大変だなと思う。 

関東以外で暮らしたことがないので、北国の人の気持ちは分からない。 ただ、言えることは、北国の人は辛抱強い人が多い。 今までの経験から言える。 これは、何となく分かる。 

  今週の土曜日は、西船「百花亭」で、大人教室の新年会がある。 参加希望者は、30人を超えた。
  5月末開催の会員展のオープニングパーテイーは、40人を超す。 私が全作品を講評するため、人気が高く、年々参加者が増える。 
  もっとも絵画教室らしい親睦会だからだろう。 それで、人数が多い。 
  
8月初旬開催の納涼祭も参加者が多い。 キッズ教室との合同イベントでもあるため、これも、毎年40人を超す。 
  これは、お祭りだから。 アート21祭り。 子供も大人も楽しめるように、趣向を凝らす。 それで人気が高い。

  しかし、新年会は純粋な飲み会。 料理とお酒に興味のない人は来ない。 それで、昨年までは、20人ちょっとの参加者が常だったが、今年は違った。 30人を超える。 
  昨年の入会者が、10人くらい含まれるので、料理とお酒に興味がある人が多く入会したということになる。
  何となく可笑しい。 そういえば、そんなメンバーだ。 


さて、先週よりアーカイブ編ということで、以前書いた記事をご紹介している。 私が選別した記事だけでも、半年分ある。 
  5月末の会員展後には、作者紹介として、また、作品と作者を紹介する予定なので、それまでは、アーカイブ編を中心としてご紹介。 作者紹介が終わったら、アーカイブ編の残りを続ける予定。 
  時々、キッズ教室のことや、大人教室のことも挟むので、お楽しみに。 まあ、とりあえず、来週は、「アート21新年会」報告かな。 

  絵を描くことと、文章を書くことは、全く違うので、ブログ記事は、私のいい気分転換になっている。 今や、趣味の一つ。 時間のある方は、お付き合い願えるとありがたい。
  では、今回のテーマ 「デッサンが上手く描けない」 をご紹介する。


初めて、デッサンをする人で、もののカタチがとれるかどうかは、個人差がある。

  初めてということは、学校以来という意味である。 この個人差が、年齢が高い低いと、余り関係ないので、不思議に思う。
  年齢が高い人は、学校以来の年数も長くなるので、若い人より、上手く描けないなら、理屈に合うが、これが、そうでもない。 得手、不得手の、話として考えることになりそうだ。 

  もののカタチがとれないのには、理由があるはずだ。 やはり、得手の人も、不得手の人も、個人差はあるといっても、最初から、そうは描けない。
  手が描くのではなく、頭の情報で描くからである。 頭の中に描くものの情報がなければ、描きようがない。
  
  わが教室では、初心者の鉛筆デッサンは、ボトルを描いてもらう。 お酒のボトル。 お酒を飲まない人でも、見たことはあるだろうから、いざ、描く段になったら、スタートは、皆一緒ということになる。

  差がつくとしたら、カタチに対する認識の早さしかない。 それを、得手、不得手という言い方をする。 これは、どういうことかと言えば、カタチに対する認識の遅い人が、デッサンが上手く描けない、と、言っていることになる。
  さらに、続けると、カタチに対する認識が遅いなら、いつかは、描けるということ。 デッサンが上手く描けないのではない、上手く描くのに時間が掛かるだけである。

  デッサンは、どう身に付けるかが大事。 デッサンが上手く描けない人は、カタチに対する認識が遅いわけだから、カタチを見る目がしっかり身に付くよう、ゆっくり構えることだ。 
  カタチを見る目がしっかり身に付くこと、しっかりとした濃淡調整が身に付くこと、それが結果的に大事なこと。 だから、慌てず、騒がず、ゆっくり進むのが正解。


  さて、デッサンをしている人に逆の話をしてしまうが、実は、絵は、デッサンが全てではないという話を一つ。
 
  わが教室で、Kさんという60才代の男性が、デッサンをしていたことがある。 デッサンをしている人の、上手さのランク付けをしたら、おそらく下から数えたほうが早いだろう。 まあ、あまり上手いとは言えないわけだ。 
  だが、この人が、油絵を描くと、なぜか光り輝く。

だいぶ前のある年の教室展での話。 技術的に優れた絵がたくさんある中で、私の個人的意見は、Kさんの絵に、まず、一票と思ったことがある。
 
  その年に出品したKさんの絵は、実に良かった。 絵が柔らかく、デッサンが絵を邪魔しないので、実に、素直に絵を見ることができた。 理想的な絵の見せ方だった。

  絵とは、実に不思議な世界である。 不得手なものを、武器にすることができる。 絵の世界では、優等生こそ、問題児となる。
 
  その年の発表会で、ちょうどKさんと正反対の人がいた。 なんでも描けるベテラン女性が出品していた。 
  しかし、水彩画のデッサンが出来過ぎていて、絵がガチガチだった。 他の生徒さん達は、なぜか、そのガチガチの絵のデッサン力を褒めて、「上手い人だ」 と、言っているが、私は、展示会中ヒヤヒヤした。 

「こんな絵を飾っているようでは、この絵画教室も知れてるな」 

  と言う声が、聞こえて来るようであった。
 
入会したばかりの人なので、展示している絵は、教室で制作したものではない。 しかし、ベテランであったので、過去の作品もたくさん持って来るように言ったのは、この私。 展示しない訳には、いかなかった。 
  計算違い。 マイッたのである。
 
せめてもの救いは、わが師匠の映周先生が来なかったこと。 武蔵野市在住なため、来るはずもないが、来たら怒られる。
  結局、発表会後、その人には注意し、絵に対する考え違いを正した。 

デッサンが上手く描けないなら、のんびりやろう。 デッサンが上手く描けるので、自分は絵が上手いと勘違いしてるより、数段健康的である。 
  デッサンはデッサン、絵は絵なので、これは完全な勘違いだが、結構こういう人は多い。 こういう人が描く絵は、勘違い絵として不健康おびただしい。

  絵の世界にも健康、不健康はある。 私は、そういう意味では、絵のドクターと言えるかもしれない。
  皆を健康にするのが私の仕事。 まず、人は健康であること。 そこから全てが始まる。 

「デッサンが上手く描けない?」

「イーですよ! 少なくとも、至って健康です」

<教室日記>2014・1・14(火)
<ブログ講義>
「デッサンが基本は、本当に正しいか?」アーカイブー2007年9月4日のブログより

  この1月からアーカイブ編ということで、以前書いたブログ講義をご紹介する。 
今回最初にご紹介するのは、2007年9月4日から毎日7日間掲載した、「デッサンが基本は、本当に正しいか?」という記事である。 
  当時は、このブログも1回1000字までの制限付きだったので、7日間も掛かってしまった。 
  大変な長文であるが、今回は二度に分けずに一度に読んでもらおうと考えた。 興味のある方のみお勧めする。 現物とは違い、編集編である。
 

  さて、一般に絵を始めるなら、まずは、デッサンからと皆考える。 デッサンが基本だと言う。 
  果たしてそうであろうか?
これが、今回のテーマである。 

  デッサンが基本だとする考え方は、結構難しい問題を抱えている。 そこで、まず、デッサンとは、いかなるものか、またその必要性について考えてみよう。  

  わが大人教室の人で、デッサンを勉強したほうがいいと、思う人は確かに何人かいる。 どうして必要かといえば、画面が見づらいこと、バランスが悪いこと、角度がマチマチであること、が挙げられる。
 
  絵は基本的にメッセージであるから、自分の感じたこと、感動、イメージを第三者に素直に伝えなくてはならない。 その伝達を邪魔するものは、排除するのが、絵の制作上の基本的考え方だ。
 
  したがって、画面が見づらい云々では困るわけで、そのためには、デッサンを勉強するのも、方法であろう。  

  デッサン効果ともいえる基本的効果は色々ある。 構図の問題、バランスの問題、形の把握、人物の骨格及び肉付き、画面上の表情のつけ方、濃淡のバランス、制作過程の反復エトセトラ。 
  様々な制作上の問題は、デッサンを勉強することで、得るものが大きい。  

また、デッサンは、実体に限りなく近づける作業でもある。 写実の極致の意味合いから、見たものをそのまま描くことになる。 
  そのまま、描くのであるが、これが、案外簡単ではない。 

  例えば、モチーフのカタチをとったとして、当然、鉛筆を持った手で描いているはずだが、その実、カタチは脳で描いていると言える。 
  つまり、手も、モチーフを見ている目も、ものを考えない。 手は脳からの伝達で動き、目は、見たものを脳に伝えるためにある。 全ては、脳が考え認識する。

  教室でよくある例を出してみよう。 
デッサン初心者に、ガラスの瓶を描いてもらう。 テーブルの上に置いた普通のワインボトル。 
  
  普通のワインボトルなので、断面は正円であるが、それを横から見ると、ボトルは楕円の集まりになる。 ボトルの底は楕円のタテの直径が長く、厚い楕円である。 逆に、上に行くにつれて直径が短くなり、薄くなる。
  
  デッサンであるから、これを、描くことになる。 ところが、この楕円を初心者は上手く描けない。未熟だからではない。 脳に楕円の情報がほとんどないからである。

  目が、薄い楕円の情報を脳に伝えても、判断するのは脳だ。 その脳が、どういう風に判断するかと言えば、脳内に貯蔵されている一番近い楕円のカタチの情報と照らすことになる。 

  脳が、これが目で見た楕円のカタチだと判断して、それを描くように手に伝達する。 これが、目が見たものと合致しない。

  薄い楕円は、通常、人の頭の中に情報としてないからだ。 結構、厚い楕円の情報しかないのが一般的。 
  だから、脳は、目が見た薄い楕円を認識できない。 それを講師が指摘すると、

「あっ! ホントだ! でも、どうして?」

  ということになる。 描いた本人は、ちゃんと見て描いているつもりだから驚く。 
デッサンのもう一つの効果は、この、 <脳のカタチの情報を更新する> ことがある。 薄い楕円があることに気付けば、更新される。 
  つまり、デッサンをするということは、このカタチに対する更新の繰り返しをする、という意味でもある。

  デッサンを描く人が、画面を消しゴムのカスだらけにしている光景をよく見かける。 
  これは、カタチの訂正を繰り返しているためであるが、同時に脳も消しゴムのカスだらけ。 目で見たカタチに限りなく近づけることは、まさに脳の情報次第ということになる。

  さて、ここまでだと、デッサンの必要性は十分にありそうだ。 「絵の基本はデッサン」であると、言いたくなる。 

  では、ここで、逆の話をしてみよう。  デッサンの不要性の話。 デッサンの不要性なんかあるはずがないと思う人もいるかもしれないが、それはどうだろうか? 

  デッサンとは、それほど強力なものなのか、ひっくり返してみよう。 さて、どうなるか?

  デッサンは技術なので、絵を描くためには技術が必要ということが前述までの話である。 技術がない絵は、程度が低いのであれば、世の中でアートと呼ばれるものは、皆、技術があることになる。 
  
  絵におけるアートの定義は、大雑把に言うと純粋なアピール性。 アピール度が高いほど、アート性も増す。 
  
  つまり、絵はメッセージであるので、相手に伝わるメッセージの量が多いほど、いい絵であるという判断基準がある。 しかし、実際にはメッセージの量が多いにもかかわらず、技術がないものもある。

  例えば、身近なところでは、子供の絵。 子供の絵は、純度からいったら、大人の比ではない。 純粋であるがために、その破天荒なアピール性は抜群である。 特に、小学校就学前の園児の絵に舌を巻く。  
  
  イマジネーションや感情だけでなぶり描きされた絵は、こちらの胸にそのまま飛び込んでくる。 驚くべきアピール度であるが、当然技術とは無縁である。
 
  また、大人の例としては、ジミー大西氏を挙げることができる。 彼はコメデイアンであったが、ある番組の海外訪問で絵を披露し、それをきっかけに才能を認められたのは、つとに有名である。
  
  私は初期の作品をテレビで見た範囲であるが、すばらしいと思った。 
才能の原石を見るようであった。 彼の絵を見ていると、デッサンはいらないなと思ってしまう。 
  もちろん、本人がデッサンの勉強をしていないことは、一目瞭然。
 
技術のない子供の絵が素晴らしく、デッサン経験がない大人の絵が素晴らしいのであるなら、絵の基本はデッサンだと決め付けられないことになる。 
  これは一体どういうことだろうか?

ピアノに例えてみよう。 例えば、技術のない子供が一生懸命にひいたピアノを素晴らしいと思うだろうか。 
  おそらく、その子のピアノに感動するのは親だけだろう。 ピアノを気持ち良く聴くためには、技術の裏づけが必要なのは、容易に想像つく。
 
  子供のよくある習い事にバレエもあるが、これも結果は想像つく。 テニスも野球も同じ。 これは、大人とて同じ。 

  これらの習い事には、基礎的な技術が必要であり、技術がないと第三者には鑑賞に堪えない。 
  
  では、なぜだろうか? 絵だけ、技術あってもなくても、有効なのか?

どうやら、その答えは、時間にありそうだ。 技術を基礎とするものには、時間が絡む。 そう考えるといいと思う。   
  前述した例は、その良さ、上手さを分かるためには時間が必要である。 一瞬では分からない。 つまり、鑑賞者を退屈させないために時間を持たせる技術が必要ということ。 

  他にも、時間が絡むものは、たくさんある。 文章がそう。 文章も駄文だとあくびが出る。 映画も、しっかりした製作技術がないと見る気がしない。 落語しかり、テレビしかり。 
  これらを仮に時間表現と名付けると、絵は瞬間表現ということになる。
 
その評価は一秒で決まる。 描き手は、その一秒のために努力する。 一秒の闘いである。  
  
  デッサンを基本として絵を始め、努力して、様々な技術を身につけ、知識を身につけ、経験を積む。 ところが、そこに、デッサンをやったこともない人が現れ、好きなように描いた絵が、評価されたら堪らない。 
  しかし皮肉なことに、努力した人間が、「一秒の闘い」で敗れることは、実際にあり得る。

  瞬間表現と言えるものは、他にもある。 例えば料理。 食べた瞬間に旨いか不味いか分かる。 香水もそうだ。 

  そして、これらは、基礎的な技術が必ず必要と言い切れない。 子供の作った料理が、親以外の第三者が旨いと思うかもしれない。 

  時間表現ではあり得ないことが、瞬間表現では起こり得る。 少なくとも可能性はある。 要するに本人のセンスの問題が大きく左右する。

  もうお分かりだろう。 瞬間表現または瞬間芸術は、純粋な感覚世界なのだ。 
そのため、絵の世界に関して言えば、昔から二種類の絵が存在していた。 ナイーブアートとアカデミックアート。 
  技術を持たない絵と技術を持った絵の両極である。   

さて、話は遠く過去に飛ぶ。 有史以前の話。 
  人類最古の絵と言われているのが、旧石器時代に描かれた洞窟壁画だ。 洞窟の壁に動物の絵や狩をする人が描かれている。 人はほとんど棒人間。 
  皆さんもご記憶あるだろう。 
  
アルタミラや、ラスコーの壁画が有名である。 紀元前3万~1万年いうことらしいので、これはもう相当古いが、人類が最初に描いた絵の痕跡ということらしい。
 
  その後、新石器時代を経て、もっと高度な文明が出現すると、絵も進化することになる。 エジプトやメソポタミア文明が産み落とす絵である。 後の古代ギリシャや、ローマ美術に影響を与えたと言われている。 
  
  これらの絵は、純然たるナイーブアートである。 技術を持たない絵であり、また、先進的な絵画の基礎を学んでいない絵というもの。
 
  ただ、ややっこしいことを言うが、絵画の基礎は学んでいないが、洞窟の壁画や古代遺跡で発見された絵は、線描きされている。 線描きされた絵をデッサンと言うので、デッサンをしていたことになる。
  
  今ふうのデッサンではないが、その後、面を塗るようになってから、この古代デッサンは廃れるのである。
 
  話を戻そう。
 
つまり、初めにナイーブアートありきなのである。 そして、美術が進歩し、よりリアル化し、面を塗るようになってから、下描き用または、練習用にデッサンが進化する。 
  
  その先は、お分かりのように何百年か掛かってアカデミックアートが出来上がっていく。
 
  では、ナイーブアートが消滅したかと言えば、そうではない。 ナイーブアートからアカデミックアートが枝分かれし進化したが、ナイーブアートはそのまま存続した。 
  第一、消滅する理由がない。 どの時代にも趣味で絵を描いていた人はいたはずだし、暇つぶしに描くのに、基礎を習うはずもない。

  ナイーブアートは、今日、技術を持たない絵という意味と、絵画の基礎を学んでいない絵という意味の他に、芸術性の希薄な絵という意味がある。 
  
  技術を持たない絵の例として、先のジミー大西の絵を挙げられる。 絵画の基礎を学んでいない絵の代表的な例は、アンリー・ルソー。 
  そして、芸術性の希薄な絵の例としては、ヒロ・ヤマガタや、ラッセンなどだろう。 イラストレーションの範疇に数えられる。 
 
  このナイーブアートの中で、今回のテーマである「デッサンが基本は本当に正しいか」に直接的に関係してくるのは、やはり、「技術を持たない絵」である。 
  なぜなら、アカデミックアートと同じ比重を持つから。 つまり、アート性において、同格なのである。
 
  そこで、これからは、ナイーブアートを「技術を持たない絵」の総称として話を続けることにするが、まず、両極の基本とするものは何かを探ってみよう。
 
  アカデミックアートの考え方は、当然デッサンを基本としている。 進化したデッサン。 では、対極のナイーブアートは何を基本としているのであろうか?
 
  ナイーブアートは体系付けされておらず、個々人の感覚に任されているが、感覚そのものを基本としていると考えられる。 ナイーブアートが、感覚を基本とする理由を、例を出してご説明しよう。
 
  粘土で、人間が立っているところを作ったとする。 まず、しっかりした骨組みが必要であろう。 そのため、骨組みを作り、上から粘土を付けていく。 骨組みがないと、粘土がグニャリと曲がってしまう。
  
  この骨組みがデッサンであると仮定する。 粘土は感覚と仮定。 この粘土、つまり感覚は軟らかく、もろい、だから、骨組みがいる。 
  つまり、デッサンという基礎の上に感覚を乗せる。 このような考え方をするのが、アカデミックアート。 

  では、対極のナイーブアートの骨組みはどんなものだろうか?

ここで、この問いにお答えする前に、別な話をする。
 
  「デッサンは技術であり、技術は感覚を壊しやすい」ということ。

これは、どういうことかと言えば、一つの技術を得るために、自分の持っている一つの感覚と交換するというシステムがあること。 
  このことは実際にあり得るし、絵の世界では日常的に起こっている。
 
色々な技術を身につけた人が、色々な感覚を持っていることは、極めて珍しい。 ほとんどいないといったほうが早い。 
  究極を言えば、技術か感覚かということ。 これが、技術と感覚との皮肉な関係なのである。    

  つまり、デッサンを習得するためには、感覚と交換になるため、感覚という粘土が、軟らかく、もろくなったと考えられる。 
  したがって、デッサンをしなかった者の粘土は固い。 だから、骨組みがいらない。 そこで、感覚が基本ということになる。
 
  デッサンは両刃の剣である。 確かにデッサン効果はある。 しかし、それは、良い面であり、悪い面もある。 
  
  悪い面とは、デッサンのもう片方の刃は、感覚を削る刃であること。 デッサンをすればするほど、感覚は削られる。 
  
  つまり、骨組みの上に付けたはずの粘土が削られ、骨組みそのものが透けて見えてしまう現象が起きる。 

  それでは意味がない。 しっかりした骨組みにしっかりした粘土が付くことが理想であるが、実際はそうもいかない。 

  しっかりした骨組みを作ると粘土が弱まる。 骨組みと粘土の関係、デッサンと感覚の関係は、そういうシーソーのような関係にある。 

  そのため、粘土が弱まり、骨組みがしっかり見えることを、「デッサンが邪魔している」 または、「絵が硬い」 と、絵の世界では表現する。
 
  聞いた話であるが、東京芸大の油絵科では、最近、デッサンの試験がなくなったという。 理由は、「デッサンをやり過ぎると、絵が硬くなるから」
 
  かく言う私も、わが師匠の映周先生に、デッサンを20才まで禁止された。 映周先生は、東京芸大の彫刻科出身である。 

  彫刻科は、油絵科よりバランスという面で、デッサン力を必要とされているため、若き映周先生は、デッサン勉強に明け暮れた。 そのため絵が硬くなった。 

彫刻家であるが、絵も描く。
 
「デッサンをやり過ぎた!」
 
  私が小さい頃からの、映周先生の口癖だ。 
おそらく、師匠は、私をナイーブアートの「技術を持たない絵」を描く人間にしたかったのだろうと、今にして思う。 

  一生デッサンを禁止したかったが、若き私がデッサンをしたくてウズウズしていたので、仕方なく20才をリミットにしたと考えられる。

  つまり、デッサンをしなかった者は、感覚が温存され、純度と強度が増す。 感覚そのものが骨組みの代わりをするので、透けて見えても、感覚しかない。 それがナイーブアート。 
  ナイーブアートは、基本とする考え方はない。 方法論がないのである。 ナイーブアートは、感覚世界の、また、さらに感覚的な世界であると言える。 

  さて、ここまでだと、なるほど、ナイーブアートがどういうものかは分かってきた。 しかし、では、と言う疑問が湧く。 

  アカデミックアートと、ナイーブアートが、絵という同じ世界に同格として存在するのは、一体、なぜなのだろうか? これは、不思議である。

絵の基本は一つではないのか? デッサンが基本ではいけないのか? なぜ、二つの対極するものが、同じ世界に同時に存在するのか? 

  それにお答えしよう。
 
デッサンを基本とした方が良いとの考え方は確かにある。 絵を描いている人間のほとんどが、そう言うと思う。 一般的というより確かな経験として。 
  だからと言って、絵の世界は広い。 トンでもない所から、トンでもない人が飛び出してくる。  

  ジミー大西氏の絵を見てると、デッサンをチマチマ描いているのが馬鹿らしく思える。 
  しかし、半面、ゆったりしたデッサン力を芯にしたフェルメールの写実に心奪われる。 デッサンこそ、絵の骨組みであると思ってしまう。 

  この矛盾は一体なんだろう?   

思うに、人の琴線は一つではない。 それがどうやら答えだろう。 

  それこそ、人には何十何百もの琴線が用意されていて、あらゆる感覚に対応する。 それが、人間の構造ではないだろうか。 
  
  まず、「人が感じたこと」 が、全ての始まりである。 感じたことを絵にする。 そのまま行くとナイーブアート。 論理立てしてアカデミックアート。 それなら、両極があっても不思議はない。
 
  つまり、琴線は純粋な感覚世界であるので、方法論は始めからない。 今も昔も、感覚を説明できる理屈はないからである。 
  
  しかし、それでは困る。 人は理屈に身を寄せて生きている。 他の動物と一線を画するのは、人間が理屈で生きる動物だから。 これは、ほとんど生物学的要請である。 
  したがって、感覚に近づく方法論が必要になる。 そこで論理立ての末、アカデミックアートという方法論が誕生する。 

  人は帳尻合わせが好きな動物だ。 アカデミックアートが目指したものは、その帳尻合わせ。 画面上の帳尻が合ったものを目指したのである。 

  フェルメールがいいのは、帳尻がピタッと合っているからに他ならない。 その帳尻合わせの技術をも持ったものを芸術と呼んだ。 

  芸術とは、最高の帳尻合わせ技術の上に純度の高い感覚を乗せることを意味する。 それが、芸術。 
  
  つまり、削り取られて、最後に残った感覚を無駄なく温存し、冠にしたのである。 まさに、人類の英知の結晶である。 
  
  ギザのピラミッドと同じと考えるといいかもしれない。 あれだけの建造物を、ただ石を積み上げただけでは、出来上がらない。 技術と知識が必要。 
  そして、その頂上には、やはり、帳尻合わせの冠がある。 

アカデミックアートは、感覚を理屈に置き換えた集大成であり、そして、その入り口がデッサンである。 
  したがって、デッサンを始めたら、ナイーブアートの感覚世界には、決して足を踏み入れることはできない。 
  
  デッサンでカタチを意識した瞬間に、純粋な感覚の三分の一は消えてなくなると思えばいい。 
  残りの三分の二では、感覚の、そのまた感覚の世界では生きていけない。
 
  私の絵の友人で、ナイーブアートを描いている男性がいる。 絵は、純然たる自己流。 上野の美術団体の会員でもあるが、その会の中でも評価は、真っ二つに分かれるという。 

  不思議なもので、人間はないものねだりの生き物だ。 彼は、自己流で生きていることを誇りに思っているが、私のような技術系の憧れも同時に持っている。 私は彼に憧れ、彼は私に憧れる。 
  
  しかし、残念ながら、私は、技術系で生きるしかない。 わが師匠の願いも空しくデッサンをしてしまったからである。
 
  彼に言ったことがある。
 
「技術に走ったら、負けるぞ」 「技術系の人間は掃いて捨てるほどいる」 「しかし、今の絵を描き続ければ、天下に我一人でいられる」
 
 
  想像を膨らませてほしい。

ここに、大きな、それこそ大きな、巨大な森があると。 
  この巨大な森は感覚の森。 絵の森である。
 
  先人達が、手探りでこの感覚の森にとりあえず入り口を作った。 そして、とりあえず、中に進む道を作った。それが、デッサンという道である。   

  つまり、広大な絵という感覚の森に、後から来る人のために、まず、入り口を作り、入り口から続く僅かばかりの道を作ったのである。 後から来た人はその道で、森に入るための知識を学び、経験し、反復して、準備を整える。 

  やがて、時期が来て、それぞれ、森の中に分け入って行く。 これが、数百年続き、人々は、森に入るための、当然の入り口として、その道をデッサンの道と名付けた。 道は公認ルートとなった。

  しかし、森であるから、探せば他に入り口はある。 その一つがナイーブアートという入り口である。ナイーブアートから入るには困難がつきもとう。 道がないので、いきなり森である。 

  ここから入る者は、力強く、逞しく、感覚的である。 知識がないぶん、自らの方向感覚を、研ぎ澄まさなければならない。 多分に野生的であるが、反面、何ものにも束縛されぬ、自由さがあり、独創性がある。    

  アカデミックアートが築いたのは、とりあえずの入り口であり、とりあえずの道である。 他に、いい入り口が見つからず、いい道も見つからないまま、現在に至っている。

  何百年も他に代わる道がないのは、とりあえずの道の、出来が良かったからに他ならない。 人々は、このデッサンの道が、この森に入る唯一の入り口と信じて疑わない。 絶大な支持を得て、今もある。

  デッサンを基本とするか、しないか。 人の選択にまかせる。 どちらかを選択したら、そのまま突き進みしかない。 どちらを選択しても、結果的にはイバラの道を歩くことになる。 

  少なくとも、絵という感覚の森は、人類誕生の時から、そこにあり、人々の好奇心の対象としてある。 これほど、興味深い森は、滅多にあるものではない。 

  だが、しかし、残念ながら、未だに、その森に入る最良の入り口、最良の道は見つかっていない。 したがって、デッサンの道が最良であるはずもない。 それだけは、確かである。

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<教室日記>2013・1・8(火)
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通信講座水彩画見本

<教室日記>
(抽象画と現代美術) 
 
  最近、日記ばかりを書いているので、ここら辺で、久しぶりにアート講義をしようと思う。 
  アート講義をし出すと、あれもこれもと、語ることが多い。 それで、いつも長文になってしまう。
  今回も、性懲りもなく長文である。 興味のある方、または、お時間のある方は、お付き合い願えるとありがたい。 
  今回のテーマは、抽象画と現代美術について。 では、始めます。 

長文スタート!

  抽象画は、近代美術の産物であり、絵画の進化形であるが、私の師匠は、抽象画を20世紀のハヤリモノと揶揄した。 抽象を嫌っている。 こういう考え方は、古い御仁に多く見受けられ、未だに、抽象排他主義的様相を呈している。 しかし、抽象画は、今や美術史の中に、歴然とした居場所を確保していることは、間違いない。
  抽象画を、画面の構成において説明すると、抽象画は具象画の構成を取っているのが特徴と言える。 ピントが合っているのが、具象、合っていないのが抽象という考え方ができる。

  この場合の抽象画とは、20世紀初頭に誕生した考え方・方法論を取っているもの、または引き継いでいるものである。 日本の一般社会レベルでは、未だに具象画が人気であり、抽象画は分かりづらいことを以って、人気度は低い。 

  では、はたして抽象画は、それほど分かりづらいのか?

確かに、具象のような具体性がない分、視点をどこに置いたらいいのか、分からないということだと思う。
  しかし、これは具象画を見る目を養うのと、同じことが言えるので、慣れていないということで片付けられそうだ。 見慣れていなければ、例え具象画でさえ分からないことは多い。 

  抽象画が誕生して100年は経つ。 したがって、抽象表現で、どのような無茶をしても、理解不能ということは、まず、考えられない。 20世紀の初頭に誕生した考え方・方法論を取っているか、引き継いでいるかなので、端から端まで見渡せるし、把握できる。 それは、現在進行形アートではないので、すでに、形として定着しているということ。 それで分かりやすい。 

  そこで、ここに現代美術を登場させるとどうなるか。

話がややっこしくなるのである。 まこと難解になっていく。  
  現代美術の範囲は、現在進行形美術なので、非常に分かりづらいし、把握しづらい。 まだ、ハッキリと特定されていない。 また、現代美術の定義の仕方もマチマチで、20世紀初頭以降から始まり現代までとか、1945年以降、つまり第二次大戦以降とか色々諸説がある。 20世紀初頭以降から始まったとすると、近代美術と現代美術がくっついてしまい、それはないだろうと思ってしまう。 

  私の知る限りでは、1950年前後以降と考えるのが一般的ではないかと思う。 あそこら辺から実験的な制作が目立ち始め、急激に変わったように思う。
  また、潮流も様々で、枝分かれあり、新規ありで、これがまたややっこしい。 あと50年経たないと全体像は把握できないだろうと思われる。

  さて、現代美術と言われるものの一例を挙げよう。
画面にセローテープで、何か(紙だったり、鉛筆だったり)を貼り付けるという行為がある。 つまり、それまで画面上の描き方の違いを、云々してきたのが、画面から飛び出したというのが、大きな違いになる。 このやり方に近いのが、コラージュだろうが、またちょっと違う。 

  コラージュは、写真などを切り張りして繋ぎ合わせて一つの画面にすることで、よく知られる方法である。 20世紀初頭に写真文化の発達に伴い、発生した表現方法だったと思うが、あくまで、平面画面を意識しており、写真と言う道具と、それを切って貼るという行為が違うだけで、それまでの美術的認識を大幅に変更するには、至らない。 

  しかし、セロテープのほうは、セローテープという至極日常的なもので、画面に何かを貼る行為そのものに意味があり、それまでの、美術認識を超えている。 現代美術が難解なのは、この点である。 つまり、具象画とか抽象画とか画面とか絵具とか、それまでの美術セットが全く役に立たなくなったということ。 

  壁に平筆で、ひたすら点線のように横線を描く作家がいる。 壁だけに留まらず、何にでも横線を引く。 その行為そのものがアートだとしている。 
  その他では、有名な「梱包」。 何でも布で梱包してしまう。 ビル一つ、何キロにも亘る岸壁とか、エスカレートしていくが、そのまま残すのは無理。 このように、あとで壊すこと、元通りにすることを了解した上でする行為をインスタレーションと呼ぶ。 別名パフォーマンス。 これなども、20世紀以前の何世紀にも亘り残すことを目的にした考え方は、ここにはない。 

  では、刹那的かと言うとそうでもない。 現代社会は、記録と情報伝達にかけては、お手の物。 写真・ビデオ・コンピューター・電話・テレビ・映画などなど、記録し伝達することに困ることはない。 むしろ、そういう時代性を背景に誕生した表現方法と言うことだろうが、いずれにしろ、ものを梱包することが、どうしてアートなのか、首をひねる人は、多そうだ。 

  爆発というのもある。 中国人作家のダイナマイトによる爆発もご存知の方は多いだろう。 これも何キロも連続爆発を起こすパフォーマンスである。  
  しかし、このような画面から飛び出したものもあるが、画面の中で変化させようと考える表現も当然ある。 美術セットを手放さなかった連中である。 ちょっと古いがアンデイー・ウオホールのポスターを挙げることができる。 アメリカ現代美術の先がけ的発想として、アンデイー・ウオホールのポスターは、あまりに有名。 ポスターをアートにしたのであるが、ここでは日常がテーマになる。 日常的なポスターを芸術の領域に引っ張り込もうとした。  

  普通に考えると、芸術と大衆は相容れない。 なぜなら、芸術とは、脱大衆だからである。 芸術は、大衆的でないから芸術として成り立つ。 一般大衆が芸術を理解するためには、大衆感覚を捨てきらないと理解できないようになっている。 アンデイー・ウオホールを代表とするアメリカ現代美術は、この芸術と大衆を融合させようとして、より問題を難解にした。 

  そんな中で、分かりやすいのは、落書きアートだろう。 落書きで有名なニューヨークが生み出したとも言える。 ご存知のように落書きは、技術はいらない。 落書きは、計算しないで描くことに落書きの本分がある。 したがって、感情がもっとも出やすいし、一番感覚的な制作は、落書きにこそある。 それをアートとして受け入れたアメリカの度量の広さには、驚かされる。 日本では絶対にありえない。
  バスキヤが有名であるが、最近の日本では、コメデイアンだった(?)ジミー大西が、その才能を見事に発揮している。 彼の絵が落書きとは言わないが、落書き的要素は多分に含んでいる。 
 
  と、まあ、このくらいにするが、これらも現代美術という大枠の一部に過ぎない。 とにもかくにも、途方もない広がりを見せていることは確か。 したがって、全てを分かろうとすることは、ほとんど意味がなく、私自身、分からないことのほうが多い。 一部分を以って現代美術としているのが現状。  

  日本の美術事情でも、さきの抽象画の範囲を出ていないものを現代美術として扱かったり、デザインと混同するもの、無茶をすれば現代美術と考えているものなどなど、様々であり、混沌この上なし。 したがって、個人の認識に任されており、現代美術と言い張った者勝ちと言えなくもない。 「それは、現代美術ではない」 と、言い切るためには、相当な見識が必要である。 そのため、個人レベルの判断によるため、陰口合戦が横行している。 

  今の日本の美術館で展開される現代美術は、非常に分かりやすい範囲のものに限定されているのが現状である。 過激なものはないに等しい。 悪臭を放つもの、散乱するもの、生理的悪寒を誘発するものなど、「危ない」ものは、排除されている。 でも、現代美術の大枠の中では、そういうものもある。 
  死んだ牛が、展示されていて、腹を割いて中から血まみれ(演出)の人間が飛び出すような衝撃一点張りのパフォーマンスをする作家もいる。 一般レベルで、この作家の考えを理解できるだろうか?

  世間的には、ピカソを難解の代名詞のように表現することをよく耳にする。 だが、今の美術界では、ピカソは、もっとも、分かりやすいものの代名詞になっている。 それほど、現代美術が難解であるということだろう。

  分からないことが多く、明快な話ができないのが残念であるが、一つの参考にして頂けるとありがたい。 
  美術の世界は、夢の世界。 無茶をしているように見える作家も、本人は夢を追い掛けているので、誰も責められない。
  したがって、皆さんは、自分の好きな絵、好きな傾向だけに目を向けることをお勧めする。 自分の夢を追い掛ければいいのである。
  時代が変わり、美術の潮流が変わろうとも、個人の好みを誰も非難できない。 自分の好みをハッキリと主張すれば、そこにその人の王道がある。 人は人、自分は自分。 それが、正解。 

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<アート講義(番外編)>2012・6・12(火)
N水彩画テキスト8見本画

通信講座水彩画見本

  作品制作において一番大事なのは、アイデアである。 これに尽きる。 
どんなに描写する技術があっても、どれだけ作品作りが上手でも、アイデアがイマイチだと、パッとしない。
  世に言う名画は、皆、優れたアイデアの元に描かれている。 アイデアが一番大事であることは、美術史が証明している。

  アイデアのある絵を描くことを創作と言う。 ものを作り出すという意味になる。 では、創作と制作は、どこか違うのか。
  制作とは、絵を描いている状態を指す。 創作している状態も、創作的でない状態も両方制作と言う。 だから、制作していたら、アイデアのある絵を描いていることに必ずしもならない。 
  
  単なる言葉の違いではあるが、絵を描く者にとって、その意味するところは、大きい。 なぜなら、得てして、アイデアは、なおざりにされがちだからである。 教室の生徒さんのほとんどがアイデアまでは、手に余るようだ。 だから、創作的とは言いづらい制作が多い。  
  やはり、技術習得が優先しているので、こうなるのだが、そのことばかりに目が行っていると、アンコを入れ忘れた饅頭ができてしまう。 
  
  創作とは、個人の独創性を意味するので、上手い下手がない。 また、そこにプロもアマチュアもない。 プロとアマチュアの定義は簡単で、絵を理解しているのがプロ、理解していないのがアマチュアということになる。 
  が、しかし、プロとしての条件に本人の独創性は入っていないので、実際、創作的には希薄なプロもいる。
  もし、独創的な絵を描くアマチュアと無個性なプロがいたとしたら、その美術的価値は、どちらに軍配が上がるか? 

  アンリ・ルソーは、独創的な絵を描くことでよく知られた画家であるが、アマチュア画家であった。そのルソーを高く評価したのは、プロ中のプロと言われるあのピカソである。 それは、ルソーが、創作していたからに他ならない。 
  軍配は、常に、アイデアのあるほうに上がる。

  
<教室日記>

  私が19才の時だったと思う。 実家のある武蔵野市の五日市街道を、50CCのバイクで走っていた。 よく晴れた日である。 季節は忘れたが、寒くはなかったので、5月か6月頃か。 どこに行くのだったかも忘れたが、家に帰ったら、母親に皮肉を言われたのだけは、良く覚えている。 
  五日市街道で、オヤジである映周先生とすれ違ったらしい。 向こうは車。 その時に、私は清々しい顔をして走っていたらしい。 
  母親曰く。 「お前、今日、清々しい顔をして走っていたらしいね」 「そお、言ってたよ」 「絵に悩んでいると、いつも言っているのに、なんで、そんなに晴れ晴れとした顔ができるんだい?」 
  そう言われた。 
 
ある時、中学3年生の女の子が、大人教室に入会した。 しかし、中学3年生は、普通入会しない。 高校受験があるからだ。 
  母親が言うには、小学校途中から登校拒否で、未だに、学校へは行ってないとのこと。 対人恐怖症だそうである。 本人の自覚に任せていると、諦めた様子。 結局、教室でも他の生徒さんと次々に出会うため、緊張して絵が描けないことを理由に、一ケ月ちょっとで辞めた。
  そんなある日、西船の商店街を駅に向かって歩いているその子を見かけた。 おめかししているので、多分、電車に乗ってお出掛けだろう。 
  気になったのは、何かワクワクしているような晴れ晴れとした顔をしていることであった。 対人恐怖症の子が、おめかしして、にこやかな顔をして歩いている。 あんな顔ができるのなら、学校へも行けるだろうに、と思った。 
  悩みを胸に秘めた子の顔ではなかった。 

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