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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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冗句三昧  <エピソード> ‘09/3/14(土)
   ジョーク、冗談ほど意味深いものも珍しい。

高品質なジョークもあれば、下衆な冗談もある。事これに関しては、ピンキリである。
   また、相手にユーモアのセンスがないと、伝わらない。なにやら、絵と似たところがありそうだ。

   ジョークは、普段言い慣れてないと、中々言えるものではない。「清水の舞台から飛び降りる」という表現があるが、そんな心境で、「えい!」とばかりに言うものではない。
   それでは、ハズシた時が、怖い。

   ジョークを言うには、受けても受けなくても、言うだけの余裕が必要である。ジョークは、余裕から生まれる。だから、ジョークを言う人間は、人間的に大きいとか言われる。
   必ずしも全てではないが、当たっている面もある。

   前アメリカ大統領のブッシュ氏に、会見場で靴を投げた記者がいたが、ブッシュ氏は、「あの靴は、サイズ何々だった」と言って、話しをカワした。
   これなどは、正にアメリカンジョークで、「いや、私は気にしてない」と言ったのでは、「あーそうですか」と、返事するしかない。話がショボクなる。

   あるアメリカ映画の中にこんなセリフがある。
買い物を忘れた亭主に向かって、猛妻が怒鳴る。「アンタの首の上にあるものは、飾りなの?!」

   やはり、アメリカ映画のセリフであるが、子供を人質に取られた主人公が、仕方なく見張り役の悪人と、旅客機に乗るシーンがある。
   ホステスがやって来て、主人公に尋ねる。「手荷物はありますか?」
主人公、すかさず隣の席に座っている悪人を指差し、「手荷物は、コイツだけだ」。

   ユーモアを言うには、センスがいる。また、言い慣れていないと、シャレた言葉も出てこない。そして、環境である。センスのない人間を相手に、シャレたジョークは無意味である。

   以前、知り合いだった40代後半のおば様がいた。この人は頭の回転が、スコブるゆっくり目であった。
   バイト先の人であったが、この人にジョークを言うのが、面白かった。
私が、何か冗談を言うと、このおば様、すぐに反応してくれない。
   レンジの中の回転盤がゆっくり回転するように、考えているのが見て取れた。
回転盤が、一周するとやっと反応した。

   「面白いこと言うね」

私のしたことは、タチが悪いが、このおば様自身が歩くユーモアであろう。

   ダジャレもユーモアになる。
元紀伊国屋社長で、作家の田辺茂一氏は、ダジャレを言うことで有名であったが、氏の最高傑作と言われるダジャレがある。

   「ゴホンと言えば龍角散」というCMをもじって、「ご本と言えば、紀伊国屋」

最高傑作です。ダジャレもここまで来れば、ご立派!

新聞配達の朝 <エピソード> ‘09/3/7(土)
   いまよりもっと若い頃、杉並区の阿佐ヶ谷に住んでいた頃、新聞配達のアルバイトをしていた。

   以前にも書いたが、おおよそ40くらいのアルバイト経験がある。その中の一つであり、エピソード「ノー天気予報」の中でも、新聞配達のことは、ちょっと触れている。

   私は、配達だけの要員なので、仕事は簡単である。朝刊と夕刊を配るだけ。朝刊の配り出しが、午前4時で、夕刊も午後4時頃、12時間ごとの仕事になる。
   これだけの、仕事であるが、実際はハタで見るほど楽でない。

その時、その時の体調もあるし、天候もあるし、事情もある。それに、12時間ごとに仕事する時間が来るということは、お出掛けがほとんど出来ないことを意味する。

   それでも、用事があって出掛けたとする。どうなるか。
朝刊を配って、帰宅して8時。風呂に入り、朝食をとり、9時に出掛けたとして、目的地に着いて10時。そこで過ごせる時間は、4時間。午後2時には、帰路、自宅に3時に到着して3時30分には、夕刊を配るために販売店にいないとならない。

   夕刊を大急ぎで配って、帰宅が6時。新宿で飲み会があったとして、風呂に入り着替えて、7時。新宿に到着して、7時30分過ぎ、飲み屋について7時45分。
   翌朝は、遅くても午前3時には起きないとならない。午後8時近くから飲み出したら、あとは、睡眠時間を削るしかない。

   10時30分まで飲んでいたとして、約2時間30分とちょっと。友達との飲み会時間としては短い。電車は十分ある時間ではあるが、持ち時間がない。
   帰宅して、11時15分。なんだかんだで午前0時就寝で、睡眠時間は3時間。

朝刊は、まだ酒が体内に十分残った状態で配ることになる。

   日曜は夕刊がないが、普通の勤めをしている者は、日曜の夜は飲みたがらない。それで、平日の飲み会だといつもこうなる。

   休刊日以外、こういう生活が毎日続く。来る日も来る日もである。

しかし、良いこともある。出掛けずらい状況にあるため、自宅周辺に釘付けであるということは、落ち着いて絵を描ける状況でもある。実際、落ち着いて描けたし、それが理由で新聞を配っていた。

   他にも良いことがあった。仕事中は自分一人であったので、考え事が出来た。絵を描く作業は半分は考える作業である。考えて描き、また考える。それが、アルバイト中に出来るのは有り難かった。

  
   さて、他にも同じ地区を配っているものがいる。他紙である。アッチコッチで出くわす。
   私は、ほとんど口は聞かない。面倒だからである。その中に二十歳そこそこと思われるの女の子がいた。

   まだ、夜が明けぬ暗い内、私は、あるアパートに向かって、暗い路地を新聞を小脇に挟んで、走っていた。ヒョイと見ると、そのアパートから黒い影が現れた。一目でその子だと分かった。

   配り終えて戻ろうとしたのであろうが、向こうは私が分からなかったようである。立ち止まって、様子を伺っている。
   朝方とはいえ、まだ真っ暗である。女の子にとって、知らない人間と暗い路地ですれ違うのは、怖かろう。

   私は、なるべく大袈裟に新聞を持つ仕草をした。暗くてもシルエットで同業かどうかは分かるものだ。私だとやっと気が着いたらしい。
   むこうもこちらに向かって走り始めた。その子と無言ですれ違った。

愛想のいい男なら、すぐに「何々新聞だよ」と言って安心させてあげるであろう。それが相手を、特に恐怖心に駆られている若い女の子を気遣うことだと思う。
   そんなことは、分かっているが、野暮天の私は、結局口は聞かなかった。

真っ暗だった街中が、次第にその姿を現してくる。夜明けが近い。
   私は、夜が次第に明けていく光景を毎日見ていた。空に色が着き始め、天気の良い日はオレンジ色に染まる。それから青く輝く。冬場は特に綺麗である。冷え切った大地をひ弱な太陽の光が暖め始める。

   最後の郵便受けに新聞を落とし込むと、仕事が終わる。タバコに火をつけ深呼吸する。それからゆっくりと自転車を漕いで、来た道を帰って行く。
   
   長い夜が開け、その日は、こうして始まり、新聞配達の朝は、こうして終わる。

平穏な日々 <エピソード> ‘09/2/28(土)
   誰でも平和に暮らしたいし、平穏に暮らしたいと思う。普通の人間ならそう考えるだろう。

   しかし、それはある程度の年齢に達した場合のことで、若い時は、必ずしもそう考えるとは限らない。
   若い時は、刺戟がほしいので、特に男子で、平穏に暮らしたいとハッキリ言う人は、少なかろう。若い時は若い時の人生の感じ方がある。

   これから、何かを築かなければならない人間が、二十代当初から平穏を望んだら何も手に入らない。平和と平穏はそこが違う。

   平和な世の中で、平穏な暮らしは、まだ望まないということだろう。

平穏な日々とは、平で穏やかと書く。何も事件が起こらず、穏やかに毎日を繰り返すと言う意味になる。だから、若者向けの暮らしぶりではない。

   私も十代後半・二十代と、夜に結構飲み歩いたり、出かけて行ったものである。何かを吸収しなければならない年代は、家にいても栄養が取れない。しかし、それを言っても言い訳としか取れない。

   母親が、「なぜそんなに出歩くのか? お金を使うだけじゃないの」と言っていたが、「いいの、いいの」と言って出歩いた。
   今の私なら、母親が言ったことと全く同じことを言う。

今でも、友人や仕事仲間と外で飲む。しかし一ヶ月に一回飲む仲間、数ヶ月に一度飲む仲間、一年に一度飲む仲間と、何となく分かれていて、何の支障もない。
   今の私には、丁度良いペースである。

考えてみれば、若い時ほど今は暇ではない。頻繁に出歩くだけの時間的余裕もない。なぜなら、私は二つの仕事を持っているから。

   絵の講師としての仕事と、絵描きとしての仕事である。いつも、そのどちらかの仕事をしている。両方を往復する中で、私の私的生活が挟み込まれている。言い換えると、全部が仕事する時間で、その休憩時間に睡眠をとり、食事をし、休息している。
 
   いつの間にか、そうなってしまった。
夜中の3時ごろに起きだし、テレビを見ることがよくある。朝が遅いので、二度寝する。
   何となく、やっている番組を見る。この前、ふと思った。「今が休憩時間なんだな」と。とても、くつろぐし穏やかである。
   
   若い時、散々出歩いたので、今は家にいる。今は遊び歩く時ではなく、仕事をする時である。
   そのことが、とても自然に感じる。
   私がやっている仕事は、二つともそれなりにドラマテイックである。決して楽ではない。

   しかし、私は今、平穏な日々を過ごしているような気がする。決して平で穏やかではないのに、なぜか、そう感じる。

   平穏な日々とは、平で穏やかと言う言い方の中に、もっと別な意味があるのかもしれない。必ずしも定年退職者の穏やかな日々を意味するものではない。
   
   つまり、自分のやっている仕事に迷いがなければ、それがどんなに困難でも、心の奥底は穏やかでいられる。そして、それを毎日繰り返せる状況にあるのなら、それはそれで、平穏と言える。平穏は個人がどう感じるかで決まりそうだ。

   定年退職者を羨む、現役の勤め人がいるが、退職した本人は退屈でしょうがないかもしれない。
   私が教えに行っているご年配の絵画サークルに、今日することに困っている人がいた。
   「今日は何をしよう?」と笑っていた。こういう人の心の中は、平穏なのだろうか?

   ちょっと違うような気がする。

平穏な日々は、こころの奥底に宿るもの。外面では分からない。
   本人しか分からない平穏が、心の底に宿る時、その人しか分からない平穏な日々が、そこにある。

ノー天気予報 <エピソード>‘09/2/21(土)
   私も過去に色々なアルバイトをしてきた。

そんな中で、お天気に影響されるものも数多い。例えば、高校・大学の時、ゴルフのキャデイーをやったことがあった。実家の近くに、名門と呼ばれるゴルフ場があった。

   ゴルフをする人は多いので、ご存知だろうが、雨が少々降ってもゴルフは決行する。しかし、雪はダメである。降り始めはいいが、積もったら止めるしかない。ゴルフボールは白いし、一面の真っ白な雪景色では、ボール探しは困難を極める。

   同じく雪が困るのは、新聞配達である。船橋の新聞配達員さんは、広範囲をカバーするためか、原付バイクで配るが、私が配達していた杉並区は、家が密集しているため、自転車で間に合う。

   こういう外の仕事で最後まで慣れなかったのは、お天気事情である。雨の土砂降りの配達は、嫌なものである。冬だと手がかじかむ。

   ところが、一番嫌なのは、雪である。自転車が滑って転ぶのである。危ないと言うより、積んでいる新聞を一瞬にして道路にバラ撒いてしまう。ビニールに包んでいるが、それをまた自転車に積むのが大変なのである。

   雪も降り出しはまだいい。滑っても、ズルズルと滑る。翌朝、アイスバーンになった時が恐怖である。相当神経を使っても、角を曲がる時に滑ったら、一瞬であった。アッという間に、道路に新聞ともども転がっていた。

   中華料理店の出前の仕事で、嫌だったのは夏の雨である。ゴムカッパが蒸れるので、中のシャツは汗でビッショリである。濡れ方は汗も雨も一緒なので、皆、夏はゴムカッパは着なかった。

   それで、よく風邪を引いた。

牛乳配達もしたが、これは車だったので被害は少ない。ただ、よく吠える獰猛な犬がいる家の配達だけは閉口した。

   今の私は、仕事自体はお天気の影響を受けない。せいぜい、土砂降りだと生徒さんの欠席が多いぐらいである。

   あとは、片道30分の自転車通勤ぐらいか。これが、悪天候で自転車が無理となると、バスに乗って電車に一駅乗って、45分位掛かる。一度歩いたら1時間掛かった。

   だから、お天気は一応チェックするが、以前のバイトほど深刻ではない。
絵画教室の先生は、仕事柄から言ったら、ノー天気でいられる方であると思う。
   それが、ありがたい。

もう、今のところ、他の職業に就く気はないので、ノー天気予報である。

イメージトレーニング <エピソード> ‘09/2/14(土)
   あるテレビの番組で、お菓子のイミテーション作りというのをやっていた。
お菓子で、お菓子以外のものをソックリに作るというものである。

   握り寿司そっくりに作り、外国人の家族に食べさせる。寿司大好き家族は、何も知らないで、ほお張る。
   顔をしかめる。ビックリというものではない。「何!これ!」と、ショックを受けたような表情になる。

   食べたのは、お菓子である。顔をしかめるような、食べ物ではないはずである。
しかし、マズイとも取れる表情になる。
   不思議だ。

味覚が当てにならないのは、ここら辺である。つまり、握り寿司だと思った瞬間、口の中が握り寿司モードになってしまったからではないか。思い込みである。

   口の中が握り寿司モードになると、マグロにするか、ハマチにするか、どれを食べようかなと選択する時に、自然に過去に食べた時の記憶が甦り、それを食べている所をシュミレーションする。つまり、イメージトレーニングである。

   マグロだと、決めて、口に入れる。マグロだ。マグロを食べるぞと、口に入れたら、チョコレートの香りが、口の中一杯に広がる。
   「うげ!ななんだ!この味は!?」と、脳が錯乱する。

イメージトレーニングは、体に大きく影響する。何々モードになるとは、このイメージトレーニングの結果である。
   この効果をスポーツの世界では、良く活用するようである。卓球の誰々が、試合前にイメージトレーニングするとか、テニスプレーヤーや、野球選手がするとか、良く聞く話である。

   これは、絵の世界でも同じで、特にドローイング描写などで、一発勝負の時は、イメージトレーニングする。そうすることによって、頭の中を描くことで一杯に出来る効果がある。集中力が増すのである。

   体と言うものは面白いもので、体が覚えるということがある。覚えるのは脳の専売特許かと思いきや、体も覚えるのである。
   体の何処で記憶するのか、分からないが実際にあるし、そういう経験を持っている人は、多いだろう。

   食べ物の話に戻るが、美味しいラーメンを食べるのに、イメージトレーニングなしで食べたら、味は半減するのではないか。

   例えば、味も素っ気もない倉庫のような所に、テーブルと椅子があって、壁には自動販売機のような四角い箱があり、ボタンが一つだけ付いている。そのボタンを押すと、下の方の配膳口からヒョイとラーメンが出てきたら、お店屋さんで食べるのと、どれだけ違うだろうか。
   状況自体が味も素っ気もない。

そう考えると、お店というのは、システムが良く出来ている。

   どこどこの、あのラーメンを食べたいと思ったとする。そう思った瞬間、頭の中は、イメージトレーニング開始である。お店に到着するまでに、食べているところを何度も、イメージトレーニングする。
   お店に到着して、席につく。あちらこちらでお客がラーメンをすすっている。

美味しそうだと、またイメージトレーニング。お店一杯にスープのニオイが充満している。そこで、またイメージトレーニング。
   ラーメン到着。お箸を二つに割って、頂きます。

「ウーン! やっぱり旨い!!」

   お店まで行く間、待っている間、食べている時、食べた後。実にスムースなシステムの流れがある。味覚のシステムである。

   もし、ここで冗談でも、ラーメンそっくりのお菓子が出てきたら、どうなるであろうか。
   もし、それが世界ナンバーワンのパテシエの作ったお菓子でも、それが、どんなに美味しいものでも、頭ブッチ切れることだろう。

   イメージトレーニングは、想定外を許さず。