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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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子供の未来は? <キッズコース> ‘09/3/31(火)
   さて、子供たちの未来は、どうなっているだろうか。
彼らの未来である。良い方向で考えよう。

   まず、今より便利になっていることだろう。
携帯のドコモが、「未来のくらし」をテーマに毎年、絵を募集している。
   わが教室でも、もう5年ぐらい毎年、出品している。
子供たちが考える「未来のくらし」の中に、お手伝いロボットが登場する。
   家の中、買い物でも、お手伝いロボットが活躍する。

これなどは、近い将来実現しそうである。
   ロボット研究は、日々めざましいものがある。特に日本は、ロボット研究では、世界をリードしていると聞く。

   20年か30年したら、テレビと同じレベルで、各家庭に一台づつ置いてあるかもしれない。
   実用性は、計り知れない。人間の代行をロボットがやってくれるなら、不精者のアイデアは、底知れずだろう。

   我々の小学生くらいの時に、テレビや冷蔵庫、洗濯機が普及し始めた。テレビっ子は、我々が始まりである。
   洗濯機の普及は、世の母親達の自由時間を増やした。その後洗濯機も進化したが、スイッチを入れるのと、干す作業は、その後、現在に至るまで、人間がやっている。
   ドライ乾燥機で乾かそうが、移すのは人間である。

もし、これをロボットが代行したら、そこで初めて新しい時代が到来する。
   これは、料理に関しても同じ、もしかしたら子守りも同じかもしれない。

今の子供たちの孫ぐらいは、ロボットによって、子守りされるかもしれない。その孫世代が大きくなった時に、こんな会話があるかも。

   「僕は、U-何型ロボットに育てられたんだよ」と一人が言えば、もう一人が「そうそう、僕も同じ」と言う。
   すると、もう一人の女の子が、「私は、違うわ。母親よ」「だから、あなた達って、
考えていることも、冗談も良く似ているのね」

   さて、この頃には月への移住、火星への移住も現実化していることだろう。
十分考えられる。
   地球の資源は、限りがある。それなら他の天体に目を向けるのは、当然の成り行きであろう。

   そこで、採掘や調査をするなら、家族持ちは、一家で住み着くことになる。当然学校や、病院、ショッピングセンター、娯楽施設等、生活に支障のないように、街づくりをするだろうし、土地を購入することも考えられる。

   いや、土地は、無理があるかな。何しろ空気がない。土地の値段が二束三文でも、空気調整施設を作れば、莫大な費用になる。それより、巨大ドーム型の中にあるマンションの方が値段が安そうだ。
   やはり、その線が妥当か。

アメリカのテレビドラマ、「スタートレック」に、随分影響された科学者は多いらしい。子供の時にファンで、科学の道に進んだ若者も少なくないと。
   その科学者が、これだけは不可能だろうと言っているのが、転送装置らしい。

「スタートレック」をご存じない人のために説明すると、転送装置は、人間やモノを転送できる装置である。
   一応、ドラマの中では、地球で言う周回中の人工衛星と地上の人間ぐらいの距離なら転送可能領域と言うことになっている。
   一旦、人間を分子レベルまで分解してから、送信し、また組み立て直すことになっているが、これが、今の技術では出来ないらしい。
   今というより、将来的にもできないだろうと、テレビの「スタートレック」の特集番組で、科学者が言っていた。
   それはさておき、テレビドラマの単なる空想が、科学を夢見る子供たちを刺戟することは間違いない。
   そして、彼等が、そのまま、研究者となったとしたら、彼等が、夢見たことを、現実化して行くにちがいない。すると、またその現実からその時代のテレビ(?)みたいなものが夢物語を作り、それを次の世代の子供たちを刺戟することだろう。

   面々と続く刺激の連鎖である。

子供たちの未来は、明るいと信じよう。そして、科学だけでなく絵の世界も、日々変化していることを、知ってもらいたい。

   夢は、いつの時代にもある。どこにでもある。ただ、気が付くか、気が付かないかだけである。

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上手いと思っている理屈 <キッズコース> ‘09/3/27(金)
   絵の教室なので、絵の上手な子は何人もいる。
才能を感じる子も少なくない。

   才能にも色々あって、モノを写すのが上手いのも、才能であるが、面白いアイデアが浮かぶのも才能である。大体、この二つに大別出来る。

   中には、両方を持っている子もいる。

世間的に言うと、モノを写すのが上手い子を、上手いと言う。
   小学生なのに、技術があると言いたいのだろう。

小学生でも器用不器用は当然ある。不器用な子は器用な子を羨ましがるし、器用な子は得意満面でいる。

   ただ、絵の世界では、器用と言う言い方は、いい表現ではない。誰かの個展を見に行って、「器用な絵ですね」と言ったら、相手を侮辱したことになる。
   
   絵は真実の追究なので、不器用でも真実のあるほうに、軍配が上がる。
器用と言うのは、それとなく出来てしまうことを意味するので、「器用な絵ですね」と言うことは、「それとなく描いた絵ですね」と言う言い方をしたことになる。

   真実を描いたのではなく、真実っぽいと言う、まやかし的な意味合いになる。

これは、子供も同じ。それとなく、要領よく描いても、才能云々ではなく、やはり器用の範囲を出ない。

   世の親御さんは、このことは完全に勘違いしている。

難しい話なので、無理からぬところではあるが、私が言う上手い子とは、モノを写した時に、リアリテイーのある絵を描く子が、上手いと言っている。

   また、個性的な絵を描く子も、同じように才能を感じる。

さて、才能にはもう一つ、アイデアが浮かぶというのがある。
   これも、一つの純然たる才能である。

絵の世界では、描写が上手い、または絵が個性的、アイデアが浮かぶ、の三つの内のどれかでもあれば、プロの世界でやって行ける。

   例えば、青木繁という天才画家がいるが、この人物は「描写が上手い」と言える。
   描写が図抜けて上手いのである。代表作「海の幸」は、この描写によるリアリテイー感の勝利である。
   絵が個性的であるのは、よく知られた画家は、皆個性的であるが、その中で、特に挙げれば、アンリー・ルソーであろう。ナイーブアートの代表的な作家であるが、その個性的な絵は、つとに有名である。

   では、アイデアが浮かぶ画家と言ったら、誰を挙げるかとなれば、やはり、ダリになってしまう。有り余るほどのアイデアが、頭の中に詰まっているのだろうと思われるほど、ダリの絵は、アイデア一杯である。

   絵の講義ではないので、ここら辺で、話を元に戻すが、確かに、才能を感じる子供はいる。
   しかし、それはバラ色の未来を決して約束するものではない。

世の中には、才能のある子供そして大人は、結構いるものである。私の実感である。才能のある人間は、特殊な人間のことだと、思っていたら、それは違う。
   私は、今までに何人も出会っている。

では、なぜ世に出ないかと言えば、そこからが難しい話になる。

   まず、その才能を自覚している必要がある。そして、その才能を花開かすために努力を惜しまないこと、絶対諦めないこと、粘り通せること等々・・・・
   条件は厳しい。

この全てをクリアしないと、才能は花開かない。だから、世に出る才能は、限られてしまう。
   厳しい条件をクリアするのも才能の内ということに、結果的になってしまう。

さて、子供たちを見ていて、何人がそうなってくれるのだろうかと思う。
   単純に上手いと思っていて良い。大きくなるにつれ、絵に情熱が傾けばいいのである。
   子供の上手いと思っている理窟は、単純に他の子より上手いということだろう。

それでも、良い。初めはそんなものだ。

子供の遊びの理屈 <キッズコース> ‘09/3/26(木)
   子供から遊びを取ったら、何が残るか?

勉強が残ると言う話ではなく、子供らしさの話として考えると、何が残るか、ちょっと考えてみても分からない。

   それほど、子供と遊びは密着しているということであろう。

我々、大人も遊びはする。
   ゴルフやテニス、名所見物などのウオーキング、着飾って出かけるお買い物、居酒屋での交友など、大人の男女は、それぞれに健康のため、気分転換など有意義性を前面に出しながら、詰まるところ遊びに出掛ける。

   退屈しのぎが遊びの目的なのは、子供も大人も変わりはないが、子供は、一日中遊ぼうとする。さすがにそこは大人と違う。遊びのプロが子供である。

   教室で時間が余ると、子供を10分ぐらい遊ばせることがある。
断る子は、まずいない。それぞれにグループを作ったりしながら、遊び始める。
   子供にとっては、何でも遊びになる。

男の子は、ラクガキしながら、ガヤガヤしたり、時には追いかけっこ、工作の紙を丸めた棒で剣代わりに殴りっこ。大体、運動系である。

   女の子は、ゲームが多い。その場で思いついたルールで、シリトリだったり、サイコロだったり、知能系というか、理窟系というか、考えるような遊び方をする。

   これが、幼児だと男女とも運動系であろう。

さて、遊びのプロが子供なら、そこに理窟はあるのだろうか?

  大人は、健康のため、仕事をした後の気分転換を名目にするが、そもそも、お金の伴う遊び方をするし、それを支払う能力もある。
   その点、純扶養家族である子供は、お金の掛かる遊びを毎日するわけにはいかない。
   子供だからお金の掛かる遊びをしないのではない。毎日1000円づつお小遣いを渡せば、1000円なりの遊びをすることは、間違いない。
   小学生3年以上なら当然そのぐらいの感覚は持っている。

現実問題として、お金には十分な期待は出来ないので、お金の掛からない遊びが、子供の遊びの絶対条件になる。だから、後は知恵を絞ったり、工夫をしながら、いかに楽しめるか貪欲に考えるのである。
   遊びのプロは、どんなことでも遊びになることを知っている。

それは、大人がすでに忘れてしまったものである。大人には大人の遊びがあることも確かであるが、そういう遊び方が出来ないわけでもないと思う。

   もし、無人島で何日も過ごす羽目になったら、きっと退屈しのぎに子供と同じような遊びに走るのではないだろうか。私はそう思う。
   
   子供の遊びの目的は、退屈しのぎであり、時間つぶしであり、貪欲に楽しさを追求することにある。
   そのためには、安上がりな方法を編み出すこと。

そして、その遊び時間は、良い子でいたからとか、勉強をしたからとかの見返りで確保すること。
   この一連の繋がりが、子供の遊びの理窟であろう。

ただ、面白いのは、この遊びの理窟に関しては、そのまま大人にも言えるから、可笑しい。妻帯者なら心当たりがあろう。大人でもそう好き勝手に出来ない。
   子供の遊びの理窟は、そのまま大人の遊びの理窟にもなる。

そこで、結論。

   子供は遊びのプロであるが、理屈は、大人も同じ。
遊びの基本に、老若男女の区別なし。

子供の色の理屈 <キッズコース> ‘09/3/25(水)
   子供は、使う色数が限られている。中途半端な色は、ほとんど使わない。

わが教室に、24色の子供用の色鉛筆がある。12本入りであるが、両端に2色づつあり、24色である。
   この色の減り具合を見ると、子供の色の好みが、一目瞭然である。

ザッと挙げてみよう。
   黄色と空色が一緒の鉛筆が、一番減りが速い。これは、どちらも同じように減る。次が、白と紫が一緒のもの。これは、紫の方が速いが、なぜか白も結構減っている。なぜ、白なのかは不明。白い画用紙に白を塗っていることになる。

   次が、黒と薄橙のもの。黒はお分かりだと思うが、薄橙は、肌色のような感じなので、顔や手足に塗るのだろう。

   その次が、赤と青。黄緑とえんじ色、橙と緑。他にも、赤紫がある。

整理すると、赤・橙・薄橙・黄色・黄緑・緑・空色・青・紫・赤紫・えんじ色・白・黒の大体13色である。一般に市販されている12色セットと、ほぼ合致する。

   今度は、逆に人気のない色を挙げてみよう。
あんず色・茶色・やまぶき色・薄緑・深緑・青緑・群青・桃色あたりである。

   これを見ると、中間色が人気がない。24色セットは、代表的な色にその中間の色を足している。
   色の理窟で言うと、色というものは、中間、中間と増え続けるのである。

しかし、子供たちは、何色あっても、結局12色から余り離れないことが分かる。

   さて、今度は水彩で見てみよう。
教室で使用している水彩絵具は、15色セットである。
   
   その15色を挙げてみよう。
白・黄色・黄緑・緑・空色・青・紫・桃色・赤・橙色・ペールオレンジ・茶色・黒・金・銀
の15色である。

   この中で、すぐ無くなるのが、白と黒。続いて赤・青・黄色・緑。
ちょっと変わったところで、金・銀である。あと茶色。

   全部で15色しかないが、やはり、その中で人気の度合いがある。

これら色鉛筆と水彩絵具を、総括すると、三原色の赤・青・黄色と白・黒・緑が絶対人気であることが分かる。おそらく子供が絶対必要とする色であろうと思う。
   それに、茶色やこげ茶、橙や、水彩だと金・銀がオマケになる。

色の認識が12色あたりが限度のようである。これは、上級生でも余り変わりはない。
   ところが、パステルにすると結構色々な、色を試す。
パステルは、色数が豊富であるし、教室で子供用に使用するパステルは、色数は、ゆうに100色は超える。
   目の前にズラリと並ぶと、さすがに12色には拘らない。むしろ、その中から12色を選ぶ方が、大変である。
   こういう状況では、自然に色々と使ってみるようなので、パステルを描かせる効果は、こんなところにあるかもしれない。

   ということで、状況によっては、色々な色を試すが、やはり、子供の色の基本色は12色である。それが、子供の色の理窟になる。

子供のカタチの取り方 <キッズコース> ‘09/3/24(火)
   子供の子供の絵を見ていて、思うことがある。

カタチは、どうやって認識しているのだろうかと。カタチに対する理屈はあるのだろうか。
   今回はそんなことを書いてみよう。

小学校以前の子は、特に5才以下は、ほとんど形に対する認識はないと言っていい。5才の女の子に、ウサギとカメの絵本を写させたら、ウサギの耳が短く、顔も丸いのでネコのようなウサギを描いた。
   カメは、意味不明であった。顔の大きさと胴体の大きさの比率に格段の差がある。胴体が小さく、足は、難解な付き方をしている。

   これは、どういうことかと言えば、ウサギの形状を問題にした描き方では、ないのであろう。
   もちろん、上手く描けない技術的な面はあるが、本人がウサギと思えば、ウサギなのであろうと思われる。カメもそうである。

   大人が見て、すぐにカメと分かるカタチでなくとも、本人にとっては、意味不明な線にも、ちゃんと理由がある。カタチではなく、印象を描いていると言えば、当たっていると思う。
   幼児の絵も、詰まるところ自己表現ではあるが、人に見せるための伝達表現ではない。
   自分が分かれば、それでいいのであろう。結果的に、自分だけに分かる印象を描いていることになる。それで、分かりづらい。

   それが、幼児の描き方だろう。カタチを追うのではなく、印象を追う。だから、カタチの理屈は、幼児にはない。

   ここで、そもそもカタチの理屈とは、何かを説明しておこう。
これは、カタチに対する認識をどう認識するかということである。
   つまり、丸いもの、四角いもの、三角というように、単純なカタチに置き換えて認識出来るかと言うことである。

   これは、カタチを掴む時の基本的な要領であるが、これをしないで、見たままを描くとなると、相当難易度が上がってしまう。
   
   要領なので、考え方の問題であるが、それを小学生がするかと言えば、まず、しないだろう。そういう描き方を、まず、見たことがない。見たままを描くと言っていいだろう。

   小学6年生辺りで、どうも全体把握(カタチに対する認識)をしている子は中にはいるが、たまになので、例外としよう。

   小学生のカタチの取り方は、見たままを描く。

当然、カタチに対する認識はないので、理屈もない。

   小学2年生、3年生、4年生にモチーフ画(教室にある果物や野菜の作り物を描く)を描かせてみたところ、カタチをある程度描くのは、上級生ほどしっかりしている。
   当たり前かもしれないが、目が付いていく(カタチを把握できること)のは、年令が上がるにつれる。

   しかし、4年生が2年生より、しっかり描けたと言っても、成長の結果であり、目が付いていくだけと言えそうである。
   つまり、理屈ではなく、見たまま。
見たままを描こうとすると、カタチに、アッチコッチ不備が出る。それは、描き方が、繋ぎ方式とでも言おうか、端から順番に繋ぎながら描いていく描き方なので、どうしても誤差が出る。

   スプーンを描くのに端から描いたのでは、妙なスプーンが出来上がる。
スプーンの先を楕円に描き、それに柄を付ければしっかりとしたスプーンになるし、これがカタチの理屈であるが、そういう描き方をする子は、ほとんど見受けられない。

   つまり、子供は、幼児の頃は、感性で描き、小学生の児童は、見たままを描く。

どちらも難しい描き方である。しかし、子供の絵の教室では描き方は教えない。
   難しい描き方をして、アッチコッチ不備が出ても、それはそれでいい。
描き方の要領はある。しかしこれは、要領であり、技術である。

   そういうことは、大人になって身につければいい。

それより、もっと子供には大事なことがある。自由さである。子供が難しい描き方をワザワザしても、それを自由にしておけば、その中から、何かを学ぶのである。
   我々、大人の未来を築くのが、他ならぬ子供たちである。その子供たちに決まった法則を教え込むことはないと考える。

   カタチの理窟もそうであるが、それ以外の、色の理窟も、工作の理窟も私は、教える気持ちはない。それぞれに考えればいいと思う。
   そうすることによって、何かトンでもない物が生まれるかもしれない。
そんなトンでもない物は、子供たちの創意工夫から生まれるものであるし、そういう柔軟な頭が未来を築くのである。
   
   子供たちに要領は入らない。要領は成長が止まった大人たちのためのものである.