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プロフィール |
Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。 画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。 「西船絵画教室アート21 アート21研究所」 http://www.art21japan.jp/
南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
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自分なりの工夫 <大人コース 中・上級レベル> ‘09/4/10(金) |
制作をする時には、皆それぞれに工夫をするものである。
道具を工夫することもあれば、作業方法に工夫する人もいる。 そういう工夫も絵のうちであると考えてもらいたい。
私も道具は、色々作ったが、最近のものでは、画面の絵具を平にならすものを作った。 初めは、ペインテイングナイフを使っていたのだが、画面が次第に大きくなるにつれ、市販のものでは、間に合わなくなった。
それで、ならす部分が25cmのものや、35cmのものとか、板を削って作った。
また、ある時、和紙に描いていたら、画面が乾いてから紙が一箇所オデキのように飛び出した部分があった。 紙を剥がしたら、小さなアクリル絵具のカタマリが、紙の裏に張り付いていた。
和紙は、小さいものだと、約100号サイズの硬質ガラスに貼り付けて描く。その時は、大量に水を使う描き方をしていたので、和紙が乾くとガラス板に張り付いてしまう。 それで、ガラスに凹凸があると、それがそのまま画面に浮き出てしまう。
そういう予定外の結果を嫌い、紙を貼る時には、ガラス板をよく拭いてから貼るのであるが、たまたまアクリル絵具の乾いた塊が残っていたのだろう。
その絵具の塊を見ていて、ふと思い付いた。これだけ小さな塊が、画面に影響するなら、利用することも出来るなと、思い付いたのである。
裏ハンコと命名した。画面の裏から押すハンコである。
何度も色々なハンコを作り、表地にどれだけ影響するか、やってみた。きっと誰かがとっくにやっていることであろうが、こういうことは、自分で思い付くところに意味がある。 何かに惹かれるように、夢中になった。
そのうち、ハンコの厚みにポイントがあることが分かった。 適当な厚みのビニールを買いに行った。テーブルの上に引く厚手のビニールである。 テーブル用だと、大きいものがある。
それを買って来て、模様上にカッターナイフで、いくつも切り抜いた。これだと凹版になる。本当は、凸版の方が効果があるが、凸版は作るのが難しかった。
この方法で、130号の作品を作り、毎年出品している上野の展覧会に出した。 誰も何とも言わなかったけれど、一応自分なりの工夫はしていたのである。
自分なりの工夫は、道具にしろ、方法にしろ、人がそれに気付くのは稀である。しかし、作者は、人の気が付かないところで、工夫し努力するものである。 それが、制作するということである。
そして、そういう地道な努力は、いつの日か、個性的な制作を生み出すのである。 自分なりの工夫をしてみよう。そう考えることが大事である。
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エスキースの必要性 <大人コース 中・上級レベル> ‘09/4/9(木) |
エスキースとは、試作品のことである。大きな作品を描く時には、小さい試作品を描くことがある。
前にも描いたことであるが、油絵などはエスキースを描かない。エスキースを必要とする絵は、二度ほぼ同じものが描ける場合に限る。
油絵は、出たとこ勝負で描く描き方である。だから、エスキースとは無縁と言ってもいいだろう。
では、エスキースを必要とする絵とは、どんな絵であるだろうか。
簡単に言って、計画的に描く絵を指す。 計画的に描く絵は、二度ほぼ同じような絵が描ける可能性が高い。それで、二度描けるのなら、一度目で全体像を探ろうとする考え方が生まれる。
これは、これで合理的である。
絵の、行き当たりばったりの制作で、一番厄介なのは、計画が狂うことである。直しが出来ない描き方ほど、計画の狂いは、ダメージとなる。
例えば、水彩などは狂いが生じやすい。それを二度体験できるのは、それだけミスを減少することが出来る。 油絵が、二度描きが必要ないのは、訂正が何度でも出来る絵具であるからである。
この二度描きが、合理的であるが、必ずしも良い方法となるとは限らないので、話がややっこしい。 なぜなら、情熱を二度使うことになるからである。 言っている意味は、何となくお分かりだろう。
面倒だと言っているのではない。情熱は、絵を描く時の最も基本的な原動力である。また、最も勘の冴える時でもあるので、二度描きすると、一度目は冴えているけれど、二度目は、怪しくなってくるものである。
ミスは、減少するが、絵の出来栄えを保障するものではないと、いうことになる。 したがって、エスキースを描くような制作には、二度描いてもさほど、支障のないものに限られる。
絵の描き方を大別すると、動と静に分けられる。動が感情系で、静が形式系。一概にはもちろん言えないが、ここでのエスキースの説明としては、有効なので敢えて、こう分けることにする。
エスキースは、この形式系の描き方をする制作に、用いられやすいと言えば、何となくお分かりだろう。 動系は、出たとこ勝負的なので、エスキース制作は適当でない。形式系は、計画制作がほとんどであろうから、エスキースは、必要になってくるというわけである。
水彩などの勉強の仕方に、一度目は失敗が多いので、二度描きというのがある。一度目で、全体の探りを入れて、各箇所のチェックをし、二度目が本チャンである。 この場合の、一度目は試作になるので、エスキースである。
自分の制作で、エスキースが有効だと思ったら、面倒がらずにやってみよう。絵は上達したいが、面倒なことは嫌、では、絵の上達はいつまで経って望めない。
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題の付け方 <大人コース 中・上級レベル> ‘09/4/8(水) |
作品を描いたら、題をつけましょう。
わが教室でも、題を考える人はほとんどいない。 教室展の時に慌てて題を付ける。
題の付け方は、付かず離れずと、「新制作」の田澤先生が言っておられた。直接的な題ではなく、かといって離れすぎないということである。
ダリの題の付け方は、個人的意見を言えば、離れ過ぎのように思う。意味が良く分からないものが多い。
題があまり難解なのも、問題を残す。 そんなこと、本人の勝手だろうと、思ってはいけない。人に見せた瞬間から、そういう考え方は出来ない。
さて、たいていの人は、描いてから題を考えると思う。題があってそのイメージで描き始めることがないとは言えないが、珍しい。
田澤先生が言っておられることも、描いてからの題のつけ方である。 だから、描いてから題を考えるとしても良いだろう。 題は描いてから考える。
人間のすることなので、描き始めから描き終わりまで、一定のイメージを追いかけるとは、限らない。 描いていくうちに、変更変更の繰り返しをすると言って良い。 それで、描き始めのイメージは当てにならない。つまり、描き始めの題があったとしても、使えない可能性は大であろう。
では、出来上がった絵を前にして、制作者は何を考えるかである。それによって題が色々出てくる。
よく「静物」と言う題を油絵で見かける。テーブルの上に花瓶や花、果物を置いた絵を見たことがあると思うが、「静物―1」とか「静物―2」とか、まるでやる気のない題を付ける人は多い。
なぜ、ほとんど意味のない題を付けるのであろうか?
これには、たいていハッキリとした理由がある。たいていの場合、こういう作品は、習作の場合が多い。習作なので、こういう題を付ける。習作には、題はつけないのが普通である。 それで、しいて、習作―1とか習作-2とか便宜上付けている。。
題は、作品にとって、どれほど重要かは、難しい問題である。なくとも良いと言えば、言えるし、必要であるとも言える。 しかし、名無しのゴンベイでは、整理上も、鑑賞上にも不便であることは間違いない。整理番号がなければ、その作品を語る時、何と言えば良いのか?
題は付けましょう。自分の記憶上でも題は、必要である。
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筆を使わない <大人コース 中・上級レベル> ‘09/4/7(火) |
皆さんは、絵を描くのに筆を使うものだと、考えていることだろう。 確かに、ほとんどの場合、筆を使う。 筆を使うのは、筆で描くのが当たり前だからということでしょう。
本当にそうだろうか?
筆を使い慣れると、自然に使いやすい筆が分かってくるし、たいていは高価な筆を求めるようになる。描きやすい高価な筆できれいな線を求める。 と、普通考えているのではないだろうか?
ところが、この考えは絵の世界では、必ずしも当たり前ではない。 技術がない子供の絵が、良いという言い方をする絵の世界のことである。きれいな線を描けることが良いことにはならない。
絵は、結果的に人のために描くと、何度も言ってきた。では、何が相手に伝わるかを考えたら、きれいな線を描けることが良いことにはならないことは、分かるはずである。 きれいな線で描くと、相手にはきれいな線が、伝わるのである。
言っていること、お分かりだろうか?
つまり、きれいな線が描けるということは、明らかに技術的なことなので、相手に技術的なことが伝わるということである。これでは、不味かろう。
かの有名なピカソは、上手くなりすぎたと言って、左手で描いたという逸話がある。
このこと、お分かりだろうか。上手くなりすぎては、いけないのである。線がきれいに描けたのではいけない。筆に必要以上に慣れてもいけないことになる。
理由は、技術が相手に伝わるから。 絵の世界の常識の一つである。
そんなこと、自分には関係ないと思っているのではないだろうか。 上手くなりすぎるほど、上手くなってみたいと、言っているのが、聞こえてきそうであるが、技術が先行した絵は、どの段階でもありうる。初心者でも、そういうことはあるので、決して人事ではない。上手くなりすぎてもいけないが、技術が先行してもいけないのである。
さて、わが教室の上級者(経験30年以上)が、筆をあまり使いたくないと言っていた。筆で描くと慣れてしまっているので、きれいに描けて、それがいやらしいと言っていた。 さすが、上級者である。
彼女は、一通り何でもこなす。 デッサン・水彩画・油彩画・パステル画・抽象画と幅広い。 抽象画を描く時には、画面に絵具を垂らして、画面を傾けながら絵具を滑らせて絵にするらしい。筆は使わないと言っていた。抽象画は筆を使わなくて済むので好きらしい。
私も、手で直接描いていたことがある。そういう描き方をすると原始的な気分になり、絵を描いている気分になるから不思議である。 筆を持った瞬間、文明の利器を持ったような気がした。
別に筆を使ってはいけないと、言うつまりはない。筆はやはり便利なものである。有効利用できる。 ただ、筆に頼ってはいけないと言いたいのである。もし、筆で描いた線が、上手で、いやらしいと思ったら、相当なレベルである。
そんな気持ちを、いつの日か抱くこともあるかもしれない。そんな日が来ることを楽しみにして、とりあえずは、技術が先走る絵だけは描かないように、気を付けながら、制作に励みましょう。
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基本がなくとも良しとする <大人コース 中・上級レベル> ‘09/4/3(金) |
これについては、何度も言ってきたことであるが、絵の基本を良しとする考えと、そうでない考え方がある。
基本がなくても良いという考え方で、絵を描き始める人は、少ないと思う。 何となく自己流で始めてしまい、そのまま自己流が続いている人はいる。 そういう人が、基本がなくても良いと、考えているかと言えば、そうではないだろう。 人は、無いものねだりである。無いものをほしがる。 基本がない者は、基本をほしがる。基本があるものは、基本のない絵に憧れる。 そういうものである。
ということは、美術の世界では、どちらも正解ということになる。
ただ、基本から始めるのは、美術の王道であるため、特に絵の制作経験の乏しい者には、疑うことのない常識なのであろう。
誰しもが、そう思っている。
基本があるのと、基本がないのと、どちらも正解とは、誰も決して思わないだろう。 中・上級レベルの者でも例外ではない。
しかし、こういうことは、現にあるし、事実、基本がなくてもアートとして、認められているものは、数多い。
例えば、アフリカンアートは、どうだろう。
ヨーロッパの影響を受ける前の、アフリカンアートである。木彫りの像の独創性に心奪われたものである。アートの原点がそこにある。
もちろん、基本などない。基本があることさえ、知らないだろう。 彼らは、先祖の霊や、よろずの神などのために像を作り、個人の好き勝手で作ったわけではないだろう。
使用目的が、ハッキリしたものであったと思われるが、その中に込められた魂が、近代美術の教育を受けた者に衝撃を与えた。 アフリカンアートを見ていると、デッサンをするのが、阿保らしくなる。 独創性と魂。 これだけで、アートは成立する。
基本がなくても良しとする好例である。 しかし、これは目指して目指せるものではない。置かれた状況が違い過ぎる。
では、目指せない者は、基本を良しとせねばならないか?
そうでもない。 前述したように、自己流で描いたものに、その独創性を発見することが出来る。 私の周りに、自己流で絵を描いている者を二人知っている。 二人とも、絵に独自のものを持っている。絵についての感性は、二人とも飛び抜けたものがある。 また、二人とも基本がないことを悔やんでもいる。
その一人は、上野の都美術館で毎年開催している、ある美術団体の会員である。 その彼が言う。「田屋さんの教室が、近かったら習いに行きたいところだけどね」 神奈川県に住む彼は、千葉までは通えない。
私は、冗談として受け取ったが、実際いまさら基本を勉強してもいいことはない。 彼は、基本がないから良いのである。何にも縛られずに、描きたいように描ける。それでいい。 なまじ、知識があると邪魔なだけである。
もし、基本的な勉強をしないなら、徹底的にしないほうが良い。何事も徹底した者が勝つ。徹底すれば道は開けるのである。
良い絵を描こうと思ったら、どちらかに徹底するしかない。
基本を良しとするか、基本がなくとも良しとするかである。 さて、どちらを選ぶか?
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