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アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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何事にも素直に <大人コース(初級)レベル> ‘09/3/19(木)
   「絵が上手くなる人は、素直である」と言う言葉がある。

今回は、そういう話をしてみよう。

   人の言うことを聞かない人間がいる。頑固で自分を主張するタイプと言うべきか、絵描きにも、こういうタイプは多い。
   絵を習いに来ている者で、たまに稀に、こういうタイプが来ることがある。

もし、少し一般レベルより腕が上だったりすると、他の生徒さんからは、頼もしく映るのではないだろうか。
   「あの人は、先生に対しても自説を曲げない」「すごい人だ」

と思う生徒さんが現れそうである。
   では、本当にその人はすごい人なのだろうか?

その回答をする前に、先生とその人の関係を決めておこう。
   その人が、先生を尊敬してなければ、逆らうこともあるだろう。ちょっと生意気な人間なら、先生の言うことは聞くまい。
   だから、一応先生に対する侮蔑の念はないものとすると、どうなるか?

もし、先生に対する侮蔑の念がなくて、性格上そういう態度を取ったなら、言えることはただ一言である。

   その人は、馬鹿である。

絵の世界では、相手にされない典型的なタイプということになる。
   なぜ相手にされないかと言えば、そういうタイプは、それ以上成長しないのである。

   絵の世界は、楽しく、有意義で、大変面白い世界であるが、反面自分一人で歩けるような容易な世界でもない。先生を無視して、自分一人で歩けるような、簡単な場所は絵の世界にはないのである。
   もちろん、絵をまだ理解してない人の場合である。

ということで、小生意気なこの人は、大変な勘違いをしていることになる。どこかで気が付くような、気の利いた性格ならまだいいが、そのまま頑固だけなら、まっ、絵は辞めた方が良い。見込みがないとしか言いようがない。

   もう十分、分かったと思う。素直に耳を傾ける者こそ、勝利するのである。素直さこそ宝である。   そう考えてもらいたい。
   私でも、わが師匠の映周先生に、アレコレ言われる。今では、私に言ってくれる人間は少ないので、有り難く拝聴している。

   私も先生の前では、未だに素直な人間になる。それで良いのである。

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自信と過信 <大人コース(初級)レベル> ‘09/3/18(水)
   自信を付けることは、良いことである。

自信はエネルギーを生む。そういう意味で良いのである。ただ、それも行き過ぎると、負のエネルギーを生む。今回は、そういう話をしてみよう。

   絵を始めたばかりの人に、自信の話なんて、早いと思うかもしれないが、そうでもない。
   自信は、始める前と始めた後一ヶ月後では、確実に自信はついて来る。そういうものである。そうでないと二ヶ月目はやって来ないはずである。
   皆、少しづつ自信を付けていくから、続けられるのである。気付かない内に付く自信もある。
   初めの内は、気付かない内に付く自信の方が多いかもしれない。

わが教室で、デッサンをしている人がいる。この人不器用である。だから、中々デッサンが上達しない。
   やはり、絵は器用、不器用は影響する。才能とは違う。趣味の世界で才能云々は関係ない。才能が問題になるのは、プロの世界の話である。

   この人が言う。
「先生、中々上達しませんが、少しは上手くなっているのでしょうか?」
   私が言う。
「絵は、すぐには上達しませんよ」「だから、あせらずに辛抱強く描きなさい」
   実際、返事に困った。

月デッサン2回の後、もう1回色鉛筆練習で来るようになった。写真で撮った花や花壇を描くと言う。
   写真を見ながら、描いているのを見ていて、案外上手く描くのに驚いた。
「上手く描けるじゃない」と言うと、本人が言った。

   「先生、デッサンしていたら、知らない内に描けるようになっていました。前だったら、絶対描けなかった」

   実際、そういうことがある。その人が自信を付けたのは、言うまでもない。何のためのデッサンか分かったようだ。
   人が自信を付けるということは、思わぬことが多いかもしれない。

そもそも、上手く行かないから、自身が付かないわけだけど、ではそんなに上手く行かないかを考えてみると、意外なことに気が付く。

   それは、少しずつレベルを自分で上げていることがある。
つまり、初めは簡単なものを描いているが、次には少し難しいものに挑戦しているということである。
   そして、その次もという具合にレベルを自然に上げるが、結構本人は気が付かない。

   それで、ある時、簡単なものを描くと、簡単に描けるので、そこで初めて成長している自分に驚く。

   そういうことに心当たりは、ないだろうか。

さて、それでは、ここで過信の話をしてみよう。さすがに初心者には、過信の話は早いと思うかも知れないが、さて、どうだろうか。

   過信と自信は、背中あわせと言って、分かるだろうか?

自信が知らない内に、身に付くように、過信も同じく身に付くということである。
   どういうことかといえば、ある自信を付けたとしよう。

例えがあった方が分かりやすいので、例えると、水彩を描いている人が、空の描き方を覚えたとする。
   空の部分に水を引き、その上からヨコに筆を運ぶ。ならすように筆を運んで何回かやっているうちに、上手く出来たとすると、本人は相当自信が付くだろう。

   それで、次の他の制作の時に、やはり空を描くことになったとする。恐らく、心の中では、空は何とかなると思うのではないだろうか。

   ところが、今度は中々上手く行かない。
「エッ!どうして?」

   ありがちなことである。これが過信。

人は、経験したことから、次を予想するが、初心者は、いかんせん経験不足である。
予想が外れることが多い。それで、また自信を失う。自信と過信を繰返すのが、実は初心者なのである。
   気にすることはない。少しづつ学習しましょう。

そのうち、その経験と予想の誤差が縮まる。それが、「慣れ」というものである。

自然光の大切さ <大人コース(初級)レベル> ‘09/3/17(火)
   以前、「高齢者のための絵画指導」の中で「太陽光の中で描く」と言うのを書いた。
   今回の話も、同じテーマであるが、もう少し話しを進めてみようと思う。

   まず、以前書いたものの中から一文を抜粋してみよう。

 <(前略)  「絵は、自然光で描け」という言い方があります。これは、絵の世界では極々当たり前のことですが、ご存知でありましょうか。厳密な言い方をしますと、太陽光の反射光で描けということです。

   それで、画家のアトリエは昔から北側となっています。北側に大きな窓を設けて、反射光が沢山入るようにしてました。 (中略)  蛍光灯も進化してますので、値段のことを考えないでいい方は、より自然光に近い光を得ることができます。

   それでも、より近いというだけで、自然光ではありません。そのことを憶えていて下さい。皆さんが、蛍光灯の光でもいいやと、思う前に自然の光の下で描くのが基本なんだと、クセを付けてもらいたいのです。その上で都合上、蛍光灯を使用するのが、よいと思います。
(後略)>

   と、いう具合であるが、自然光で描きましょうということと、蛍光灯は、あくまでも人工灯であるということを、述べている。
   基本的な考え方の話なので、このことは覚えておきましょう。

実際、絵を自然光で描いても、家の中に飾ったり、展覧会会場で飾ったりする場合の照明は、人工灯である。それが、現実であるので、では蛍光灯の下で描いても同じではないかと、考えがちであるが、そこがちょっと違うのである。

   なぜ、自然光(太陽光)が基本なのかには、理由がある。
結論を言えば、永久不変の光量と色を持つからである。
   光りのエネルギーは、莫大である。いかなる照明器具を以ってしても、太陽光に匹敵する光量は得られない。また、太陽光によってもたらされる色の認識は、不変であり、時代によって変化はしない。

   もし、16世紀のヨーロッパでロウソクの光りの下で、制作した絵があるとして、現代の蛍光灯の下で見たら、どのように見えるかである。
   同じことが、蛍光灯にも言える。今、蛍光灯の下で制作した絵を100年後、200年後に、どう見えるかである。

   それなら、自然光で描けば、少なくとも色についての認識は、今も未来も過去も同じになる。それに、無料とくれば考えるまでもないが、ただ、人には制作上の都合がある。
   夜しか描けない人もいるのである。それは仕方のないことであろう。

それで、皆さんに言うことは、やむ得ず、蛍光灯の下での作業をしたら、必ず自然光の下で確認すべしということである。
   これは、大事な確認である。

そこで、オカシナ色使いだと思ったら、ためらわずに直すこと。たとえ初心者でも、そう心掛けることが、絵を描くということだと、思ってほしい。

   自然こそが、我々の友であることは、光りについても言える。

自分を褒める <大人コース(初級)レベル> ‘09/3/13(金)
   今回は、自己暗示について話してみる。

自分を褒めることも、ある意味自己暗示である。
   自己暗示の出来ない冷静で現実的な人は、よもや絵は描いていまい。
もし、そういう人がいたら、ここまでで退散して戴きましょう。これからの話は、そういう人には意味がない。

   自己暗示で面白いのは、映画などで見る、リング上のボクサーである。
トレイナーが、コーナーに戻って来たボクサーに、叱咤激励を浴びせるところなどは、自己暗示そのものである。
   
   「おまえは、戦うヒョウだ!」「アイツを叩きのめせ!」

などと、映画では言っているが、実際もそうなのではないだろうか。
   ボクシングは、格闘技の中でも、長丁場である。その上、油断すると勝敗が付くのも早い。

   相当な集中力を必要とする。ゴングが鳴ったら、闘うヒョウに変身しなければならない。だから、常にトレイナーは、作戦と自己暗示を促進させることに余念がない。

   それが、有効であるからだろう。人間は考え方一つだという良い例だと思う。

絵の世界にも、似たような自己暗示はある。
   トレイナーがいないので、専ら自分で暗示にかける。まさに自己暗示である。

私の絵の友人で、「俺は天才なのだ」と豪語する輩がいる。
   彼の言っていることも、詰まるところ自己暗示になるし、自己啓発でもある。
つまり、そう豪語することによって、自分の制作意欲を高め、自己顕示し、以って、自らの責任を果たそうとする行為である。

   そういうことは、絵の世界では、結構ある。
「天才だ!」と言うことではなく、主張とでもいうか、頻繁に聞く話である。

   絵の制作は、孤独な作業である。黙っていたら、気の滅入ることが多い。
それで、そういった豪語が許されている。

   ただ、言う相手を間違えると単なる嫌味であるし、非難を浴びるのは、覚悟しないとならない。仲間内だから言えることでもある。

   自己暗示をする利点は、人が褒めてくれないから、自分を褒めると言うことだけではない。
   人が、頻繁に褒めてくれれば、自己暗示の回数が減ることは、正直なところ事実であろうが、制作側にも都合があり、今、褒めて元気付けてもらいたい時に人はなし、という時もあろう。
   結局自分で元気付けなければならないことの方が、数段多い。

壁に突き当った時に、「俺なら乗り超えられる」、「私は、今までに何とかやってきたのだから、私なら今度も何とかなる」と、根拠のない自己暗示に掛けることは、壁の乗り越え方の一つの要領になるであろう。

   気持ちの持ち方次第である。

絵を描く上で、自己暗示は良いことだと、覚えよう。
   人に言わなければ、相当過激なことを考えても良いのである。それで元気が出れば、安いものでしょう。

何かを待つ気持ち、何かをしようとする気持ち <大人コース(初級)レベル> ‘09/3/12(木)
   今回は、初心者レベルの人に、絵を描く行為について、ちょっとだけ難しい話をしてみよう。
   何かを待つ気持ちと、何かをしようとする気持ちである。
   
棚からボタモチと言う、コトワザがある。ヒガナ何もしないで、ゴロゴロと寝ている者が、フト見上げたら棚があり、そこからボタモチが落ちてきたという、不精この上ない話である。
   何もしないで手に入ることを、縮めて「棚ボタ」とも言う。

何かを待つ気持ちは、この棚ボタ状態になりやすい。とても消極的な態度である。
   何かを待っていても何も起こりはしない。そう言える。
明日は今日の続きとして、繰返されるだけである。人生において、「棚ボタ」はないと言っていい。 もし、あったとしても宝クジに当たるぐらいの確立であろう。

   だから、何かを待ってはいけない。何かを待つのではなく、こちらから迎えに行くのである。何かに向かって迎えにいけば、見付らない時に、次の方針も自然と決まるものである。

   絵を描くということは、消極的な行動ではない。何かを掴もうとする行為であり、何かを迎えに行く行動である。
   その行動の中に、自分への探索もあれば、可能性の追求もあれば、技術の習得もある。
   様々な動機や目的を持って、人は絵を描くのである。
例え、初めは暇つぶしでも、描き進む内に嫌でも目的は、発生する。

   そして、そこから得られる経験は、そのまま自分の糧となり、体内に蓄積される。
   体内に蓄積された栄養素は、すぐには役立たない。何かの時のために溜め込まれるので、本人は気が付きにくく、有り難味もない。

   だから、途中で絵を描くのは止めたと、放り出し他のことに移ると、蓄積された栄養素は、永久に出番を失うことにもなるかもしれない。
   
   胸に手を当てて考えてみて欲しい。今までにそうやって、放り出したものがあるか。
   大抵の人は、あれこれやって来たのではないか。
何か蓄積があるのではないだろうか。

   人生において一番の無駄は、何もしないで時間が流れるのにまかせることと、アレコレ手を出し、全てを途中で止めることである。
   このぐらい、時間の無駄はない。

人は、何かを学習しながら成長していく。若い時だけではない。いくつになっても同じである。
  経験から学習したことが糧なり、栄養素となって、蓄積される。蓄積された栄養素がいつの日か身になり、自分を高め、見識を広げ、自分を楽しませてくれる。そして、また経験し、学習して成長していくのである。

   人生は、考え方一つである。詰まらないと思ったら、詰まらないのである。この世に生を受けて、詰まらないと思って過ごす人生こそが、詰まらないし、時間の無駄である。

   選ぶものは、何でもいい。続けることに意味がある。人生の秘密の扉は、継続した者にしか開かない。

   もし、絵を選んだなら、続けましょう。途中休んだっていい。仕事の事情、家庭の事情とあるだろうし、お休みは何の問題もない。人生の長さから比べたら、どうということはない。

   また、続けられるようになったら、続ければいい。
何かを待つとしたら、続けながら待つことである。続けながら待てば、必ず何かがやって来る。その方が、「棚ボタ」より数段効率がいい。

   そうやって、続けながら何かを待つ気持ちこそが、何かをしようとする気持ちというわけである。
   分かったかな?