アート21教室日記
田屋優・・・・・・画家、現代美術作家  西船橋の絵画教室、研究所主宰               (掲載内容の無断転用禁止)
プロフィール

田屋優

Author:田屋優
「絵の多角的分析」を研究テーマに、様々な角度から見た絵の本質を分析解説する。
  画家・彫刻家、田谷映周を師匠とし、兄弟弟子に画家・彫刻家、田谷安都子。 自身の弟子に橋崎弘昭、大野まみ、萩原正子、桑原麻理子、伊藤悠里子。
 
「西船絵画教室アート21
 アート21研究所」
http://www.art21japan.jp/

 南船橋ビビットスクエア・カルチャースクール絵画部講師、ウエルピア市川絵画部講師、カーサ・デ・かんぽ浦安絵画部講師、NONSTOP会員。
  

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<教室日記>2017・2・14(火)
「教室日記」

  先週の土曜日、午後1時から4時までのキッズ教室は、7人が欠席した。 
そのため、私は、 K 君に任せて休憩に出た。 

  今は、先生二人でやっており、教室会員の K 君に、昨年1月から手伝ってもらっている。
  土曜日は、午前10時から午後8時まで休憩なしの通しなので、休憩はありがたい。

  大人教室3時間、キッズ教室3時間、大人教室4時間を、12年間一人でやってきた。 
最近、さすがに疲れだし、 K 君に助けてもらうことにした。


  休憩は、南風堂に行くことが多いが、その日は駅前のドトールに行った。 前日に南風堂に行ったので、ドトールを選択。
  ドトールの2階は喫煙コーナーなので、2階に上がった瞬間、一瞬ムせる。 
喫煙者のエネルギーはスゴいものだ。 

  さっそく、私も仲間入り。 


確かに、非喫煙者からすると魔の空間だろう。  酸欠状態になりそうな空間で、さらに煙をモクモクと発生させる集団は、ハタから見ると異常だ。

  この肺がん予備軍の中に、どれだけ愛煙家がいるだろうか?

少なくとも、私がタバコを吸う理由は、曖昧だ。 

  そこに、タバコがあるから。 


わが師の映周先生は、若い頃、日に二箱吸う愛煙家だった。 
  それが、ある日、突然、禁煙した。 以後、吸ってない。

極端な愛煙家は、節煙できない。 禁煙しかない。 つまり、極端は、極端を生む。

  中途半端な喫煙者は、中途半端を生む。 

私のことだ。  だから、私は、節煙している。 日に10本。 

  なんか、人生を語れそうだ。 


中途半端、バンザイ!




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〈教室日記〉2017・1・31(火)
「教室日記」

自宅BOOK型PCの調子が悪く、ネットに接続しない。

そのため、今回はスマホ入力だ。

スマホ入力は、やりづらい。

ちょっと、余計なところに、タッチすると、
記事が消えてしまう。

この記事も、1回消えて2回目。

だから、恐る恐る打っているため、今回は、
ここまで。

悪しからず。

おー! 上手く打てた!

教室日記 2016・7・19(火)
「教室日記」


今回は、教室からスマホ入力している。


一昨日の日曜日に、「夏の特別教室」を開催した。

午前は、2時間30分のミニ実習講座、午後は、2時間のクロッキー教室。


午前の講座には、大野まみ講師担当の「ドローイング入門編」、田屋担当の「パステル初級」・「油絵具入門編」があった。


他にも受講希望者がいたが、仕事が入ったり、急用だったりで、3人キャンセルになったため、比較的に知り合い同士の受講となり、休憩時間では、和気あいあいのムードだった。

昼休みを挟み、午後2時からクロッキー教室。

クロッキー教室は、別名が「グロッキー教室」と以前は呼んでいた。

今では、生徒さんがモデルを務める着衣クロッキーだが、裸婦クロッキーをやっていた時は、モデル協会からモデルさんが派遣された。

暑がり、寒がりなど、モデルさんの体感温度に合わせるため、真夏でもクーラーを入れないことがある。

寒がりのモデルさんに当たると、教室内の温度は、上昇傾向となり、それは、もう、暑いのなんのって・・・

皆、グロッキーになってしまう。


ここ一年は、着衣クロッキーに切り替えている。
そのため、キッズ教室にも声を掛けるので、今や常連のキッズも何人かいる。

一昨日のクロッキー教室では、初参加の小1の H ちゃんの描いたクロッキーが、大人に大受けした。

一生懸命に描かれているから、面白い。

が、しかし、子供は、絵を見て笑うと嫌がる。
バカにされたと思うらしく、二度と見せたがらない。

対応は、意外と難しい。


クロッキー後、教室で数人の飲み会をやった。
その後、西船橋駅前の立呑屋に行き、居酒屋に行った。

三次会の居酒屋で、田屋はダウン。
ここ数日間の睡眠不足がタタり、途中退散した。

寝るときは、寝れるもので、帰宅後、珍しく14時間も寝た。


目覚ましが、鳴らないことが嬉しかった。






絶対不可能なこと <研究所レベル> ‘09/3/11(水)
   アートの世界で、これだけは絶対制作不可能と断言できるものはあるだろうか?

   今回は、そういう話をしてみる。

さて、アートの世界で不可能そうなことを挙げてみよう。状況的に不可能なことは、沢山ある。
   例えば、火星でスケッチをしたい。火星の大地に立って、そこで、火星の風景を油絵にしたいと思っても、今は不可能である。地球の深海5000mの世界を目の前で、絵に描きたいも同じ。
   流れる小川に絵を描きたいも無理だろう。こればかりは、今後も無理そうである。

   状況または素材が、すでに無理であるが、もっと、普通なことで無理そうなことが意外とあるかもしれない。

   プールの中で、水彩画は描けない。空からダイビングしながら、油絵は描けない。
   肉眼で太陽は描けない。時間は描けない。空気は描けない。空気を彫刻できない。

   どうも、違う。そういうことではない。

食べ物のニオイを表現できない。温度は描けない。自分の後姿は描けない。右利きの右手はデッサン出来ない。

   これも違う。

さて、色々考えたが、どれも無理そうである。本当に無理なものは、数え切れない。
   そういうものにチャレンジするのは、本人の勝手であるが、そういうことでなく、もっと、現実的で身近なことで、意外と制作不可能なことはありそうだ。

   例えば、油絵具で和紙に描けるか、というのはどうか?

普通に考えると無理である。無理と言うより、和紙に油絵具の油の成分が滲み込んで、汚くなる。
   つまり、絵具と支持体との相性が悪過ぎるのである。和紙と油絵は、水と油と同じで正反対の特性を持っている。避けるべきである。

   それでは、どうしても和紙に油絵具で描いてみたいと思ったら、どうなるか?

ここからが、本題である。

   和紙に滲む汚い油の問題をクリアしないとならない。どうしたら、綺麗に描けるか。それから、研究すると言うのはどうか。
   何が言いたいかと言えば、出来ないと思えば、それは出来ない。出来ると思えば、出来るかもしれないということ。

   これが、制作の基本理念である。

もちろん、前述の「本当に無理なこと」ではなく、無理そうだと、あきらめるか、あきらめないかの話としてである。
   制作と言うものは、チャレンジ精神なくしては、始まらないのである。「為せば為るのである」
   我々が、日常的に制作していることも、同じである。常にチャレンジしているから前に進むのである。
   絵がどうも上手く描けないと思うことは、実は絶対不可能のことを描こうとしているかもしれない。誰も描けないことかもしれない。

   ある抽象画家が、水を表現したいと願った。流れる水、淀む水、光を帯びて輝く水。
   生命の源の水を描こうとして、不思議はないが、私からすると絶対不可能なことのように思える。なぜなら、具象ではなく抽象だからである。

   抽象で水を表現するなら、プールの中で、水彩画を描く方が、簡単に思える。不可能としか言いようがない。

   しかし、本人は大真面目である。

このことは、何を意味するか?

   我々を取り巻くアートの世界は、様々な人々の夢と幻で成り立っている。実現できなかった夢が幻となって漂っている。
   アートの世界は、追い続ける夢と漂う幻で、魑魅魍魎の煙の中にある。そこは有益で、有効な情熱と、無益で、無意味な情熱の残骸が幾重にも折り重なっている場所でもある。

   そんな中で、ただ確かなことは、「何としても手に入れる情熱」だけが、ハッキリとした居場所を確保している。
   そして、その情熱は、自ら発するエネルギーによって、白く燦然と輝やくのである。
   その周りには、幻の影はない。幻は、遠く追いやられ、近づくことを、拒否されている。

   不可能と思ったら何も出来ない。それは、確かである。
もし、自分のしようとしていることが不可能だと思えたら、それから、仕事が始まるのである。
   ゆっくり重い腰を上げて、考えてみよう。どうしたら、可能になるか。何ヶ月掛かってもいいではないか。

   そこから始めなさい。

「絶対不可能なこと」  そんなものはない。

精神衛生に気を遣う <研究所レベル> ‘09/3/10(火)
   制作は、環境が良くないと中々はかどらない。

制作だけで飯が食える人は、少なかろう。しかし、飯の種になる仕事が、やたら忙しいのも、制作環境が良くないことになる。

   世の中、ア-テイストにとって快適とは良いづらい。

ア-テイストは、孤軍奮闘と訳することが出来る。私はそう思う。
   自分がア-テイストだと自他と共に宣言したら、年令に関わりなく、闘いのベルが鳴る。たった一人きりの戦いである。その闘いは、生きている間に終わりはない。

   ア-テイストにも友人はいる。しかし、自らの戦いは、自らで決着つけないとならない。友人は、何も出来ず、そばにいるだけである。

   そういう覚悟は、ア-テイストにとって、極々当たり前のことである。その孤独に耐えられない者は、そもそもア-テイストに向いてないことを意味する。

   ア-テイストの初歩的な資格試験に落ちるということになる。

その上、ア-テイストは世間に理解されない。まずもって期待しないほうが良い。さらに、仲間内でも、意見が違うと仲違いする。
   踏んだり蹴ったりの環境は、ア-テイストのためにあるといっても、言い過ぎない。

   まこと、ア-テイストを取り巻く環境は厳しい。そんな中で、制作を自らに強要する。自ら叱咤打つ。それが、ア-テイストの現実である。余ほどタフでないとやってられない。
   夢を追うということは、こういう現実と対峙することである。

さて、それだけ過酷な条件下での制作にも要領はある。
   厳しい現実に直面した時に、一番ダメージを受けやすいのは、どこかお分かりだろうか?

   精神である。精神が一番疲弊しやすい。
創作のオオモトは精神である。精神が疲れたら、制作どころではない。したがって、制作のための要領は、精神の保全にある。つまり、精神衛生である。

   優れた制作者は、優れた精神衛生管理者でもある。

もし、絵を描くということを、もっと情緒的に考えているとしたら、もっと、行き当たりばったりに考えているとしたら、それは、未熟としか言いようがない。
   
   もし、絵を描くということを、もっと感覚的のものとして捉え、計画性や自己管理など、ア-テイストにとって、不要だと思っているとしたら・・・、ア-テイストは、その時その時のパホーマンスで成立するものだと思っているとしたら、それは、大変な勘違いである。

   アーテイストも芸術家も、人類が公認した正式な職業である。職業には、職業人としての職業認識があり、職業なりの要領があり、目的がある。
   行き当たりばったりで、成立する職業はこの世にはない。

アーテイストも、芸術家も例外ではない。

   我々は、プロフェッショナルである。アートまたは芸術を推進するプロが、その場限りの考え方で、何年も続けられないのは、考えれば分かることであろう。
   そのためにも、自己管理が必要であり、過酷な環境と対峙するためにも、精神衛生は重要な課題である。

   我々が、アートなんかもう辞めたと言っても、明日の太陽は東から昇るのである。何ら変化はない。
   
   それだけ個人的な作業なのである。だから個人が作業する時には、続けて行くための要領が不可欠である。精神衛生をおろそかにした者は、必ず滅びる。そう思った方が良い。
   私の経験上言えることである。何人もの人間が辞めていくのを見て来た。

人生は、甘くない。絵の世界もしかり。プロフェッショナルは、そのような条件下でも仕事するから、プロフェッショナルなのである。

   このこと、肝に銘じたし。